一度吹っ切れてしまえば、決心が揺らぐことはない。 北石先生の叱咤のおかげで自分の目標を明確にすることができた。もう、本当の気持ちを偽る必要もない。 相当の覚悟で挑んだ両親への吐露は、以前の葛藤が馬鹿馬鹿しく思えるほど、すんなりと受け入れられた。 母はもしかしたら勘付いていたのかもしれない。「お金の心配はしなくていいから、自分の未来のためにできる限りのことをなさい」一言で軽く背中を押してくれた。こんなことならば、もっと早くから言っておけばよかった、少し後悔した。どうしてはじめから無理だと決めつけていたのだろうか。実際、両親は反対しなかった。けれども私は勝手に無理だと決めつけ、思い込んでいた。 行動を起こすのと起こさないのではこんなにも違うものなのか、と実感させられた。時には自分の将来さえも左右してしまうのだ。 今回の行動で私は大きな転機を迎えようとしている。 状況は整った。後は自分が努力するだけだ。 けれども一人。 一人だけ未だに打ち明けることのできない人物がいた。 ーーー孫兵だ。 本当ならば真っ先に伝えるべき人物だと思う。昔から大切なことは一番初めに孫兵に話していた。故意に孫兵を避けていたわけではない。しかし、何故か言うのが阻まれてしまう。本人を前にしてなかなか打ち明けることができないのだ。 勿論、後ろめたさや緊張がある。 だが、それは両親にも言えたことだ。孫兵に限られたものではない。 けれども何故か孫兵には言えなかった。 「でも、いつかは絶対にバレてしまいます。なら早く言ったほうがいいですよ」 同じ部活に所属している後輩の亜子ちゃんが追い討ちをかけるように言う。 「わかってはいるんだけど…」 「でも伊賀崎先輩、望美先輩と志望校と同じだと思っているんですよね?なら、早く言わないと伊賀崎先輩の進路にも関わることなんですから」 望美のレベルに合わせて同じ高校に通おうとした孫兵だが、流石に女子高を受けることはできない。 望美がもうあの竹谷先輩や本校の卒業生が進学したあの高校に行かないとなれば孫兵がそこに行く必要もない。彼はもっと自分の学力に合った高校へ行くことができる。 「まぁ、望美先輩の気持ちも分からなくはありませんよ?伊賀崎先輩ちょっと怖いところありますし」 「怖い?孫兵が?」 「なんか話しかけにくいオーラを放ってるでしょう?なんか態度も刺々しいし」 「え!?孫兵が!?それ人違いじゃない?」 「…この際だから言わせていただきますけど、望美先輩は特別なんですよ!伊賀崎先輩は本当に貴女のことを大切にしていますから。だから貴女は彼を過信しているんです」 うんざりした口調で亜子ちゃんが少し声を荒らげた。 彼女の剣幕に思わず喉がなる。 「とにかく!伊賀崎先輩としっかり話すべきですよ。うん、そうしたほうがいいわ」 最後に念を押されて、亜子ちゃんと別れた。 「ごめん望美、待った?」 亜子ちゃんと別れてしばらく経つと、職員室から孫兵が戻ってきた。 今日は日直だったので日誌を置きに行ったのだが、その際に先生に捕まって話し込んでいたらしい。 「大丈夫だよ。亜子ちゃんと話してたから」 「彼女、部活があったんじゃないの?」 「今日、部長会議なんだって」 「成程。そうか僕達が引退してから一週間くらい経つしな。新しい部長も決まるわけだ」 納得したように頷くと、孫兵は私と歩幅を合わせてゆっくりと歩き出す。 先程まで亜子ちゃんと孫兵の話をしていたばかりだから、少し気まずい。一刻も早く孫兵に打ち明けなければならない。本当のことを言わなくては。でも、何にかが邪魔をする。言うな。言ってはならない。 「望美?」 黙り込んでしまった私を心配そうに孫兵は覗き込んだ。 その声で現実に返った。 「あ、ご、ごめん!何の話だっけ?」 「また自分の世界に入り込んでたんだろ……受験の話だよ」 受験。その言葉にドキリとした。 孫兵がさり気なく言った言葉でも充分に私を焦燥に駆らせた。 孫兵は私の様子に気付くことなく言葉を続ける。 「ほら夏休み前の内申が受験校に送られるだろ?少し気になってさ」 「…孫兵」 「望美も一応先生に聞いてみたら?大丈夫だとは思うけどさ」 「孫兵、そ、そのことなんだけど」 やっとの思いで口を開きかけた時だった。担任の声が被さって私の声はかき消されてしまった。 「伊賀崎、ちょっといいか」 その声に私達は一斉に振り返る。 何故か嫌な予感がした。 「あー、望美の方だ。伊賀崎望美」 先生は私を指差すと、私達の前に来て私に何かを差し出した。 それを目にした途端、嫌な汗が身体中から沸くのがわかった。 「‥‥これ」 「お前、志望校変えるんだろう。そこのパンフレットだ。来週オープンスクールがあるらしいから、しっかりと確認しとけよ」 受け取るために差し出した手が震えていた。 頭の中が一瞬で真っ白になった。言おうとしていたこと全てがすっぽりと抜けてしまった。 「‥‥あ、ありがとうございます」 「おう、ちゃんと渡したからな」 声が裏返った。 私の心情など全く察していない先生は私が受け取ったのを確認すると満足して職員室に戻った。 先生が去った後も私は顔を上げることができなかった。孫兵の顔を見るのが怖い。私が先生と話している時も、今も、孫兵は一言も発しなかった。まるでそこにいないかのようだ。 けれども俯いた私の視界には孫兵の上履きが映っているので、彼は確かに此処にいる。 数分間、私達はそこに立ち尽くしていた。 暫くしてやっと孫兵が口を開いた。 「望美」 呼ばれた声に酷く肩が震える。 とても、静かな声だった。 「‥‥説明してくれる?」 その言葉を合図に私はゆっくりと顔を上げた。 |