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□センセーショナル•イドラ
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夜を待つのがこんなにも恐ろしかったことがあっただろうか。
帰り道は勿論、夕食の時でさえ私と孫兵は一切口をきかなかった。私よりも幾分も大人である彼のことだから、私が話しかけさえすれば無視することはないだろう。しかし、私にはできなかった。孫兵に声をかけることはできなかったのだ。
否応無しに二人きりなってしまう就寝前の時間が怖くて、普段よりもご飯を咀嚼したり、長風呂をしたりしてどうにかして時間を引き延ばそうとした。けれども現実とは確実に迫り来るものであり、待ってはくれない。
その時は瞬く間にやってくる。


「望美」


抑揚のない声で孫兵が名前を呼ぶ。
私達は孫兵のベッドに腰掛けて互いに向かい合っていた。昔を思い出させるような孫兵の紅の瞳が私を射抜く。
弁解の余地はない、と思った。隠し事はできない。全てをこの聡明な兄に打ち明けなくてはならない。覚悟を決めるしか、なかった。


「‥‥本当はずっと諦められなかったの。ずっと憧れてて‥‥孫兵に無理だって言われた後も、ずっと‥‥でも、諦めたくないって思ったの。自分の進路を自分で決めて、自分のできる限りのことをしてみたいって思った」


噛み締めるように一言ずつ、絞り出す。
きちんと孫兵の目を捉えながら。孫兵も私の目を見ていた。心無しか、顔色が青く見えたが、とても落ち着いた様子だった。


「確かに私は孫兵が言った通り、先のことなんて見えてない。これが最善の選択なんて断言できない。でも、挑戦してみたい。このままじゃ駄目だって気付いたから」

「望美‥‥」

「思うようにいかないかもしれない。でも、誰のせいにもしない。自分で決めたことだから。自分で責任をとるよ‥‥‥‥‥‥だから」


孫兵にも認めて欲しい。応援して欲しい。

わかったよ、望美ならやれるよ、頑張って。そう、言って欲しかった。
何時も私のことを第一に考え、私の意見を尊重してくれる孫兵なら、最後は認めてくれると思った。心のどこかで絶対に否定されるわけがないと思っていた。
だから、どんなに打ち明けるのが怖くても言うことができた。

期待を込めて孫兵の紅を見つめる。
緊張してシーツに皺を寄せた私の手に孫兵が自身の手を添えた。


「駄目だよ」


その一言と同時にきつく手を握り締める。
私は孫兵の言葉を受け入れることが出来なかった。あまりにもなんてこともないように孫兵が言葉を零すものだから、理解することが出来なかったのだ。


「‥‥‥‥え?」
「僕から離れて一体どうやって生活するって言うんだい」
「ま、孫兵‥‥?」
「駄目だよ、望美。君には寮生活なんて出来っこない。今日までずっと僕が甲斐甲斐しく世話を焼いてきたんじゃないか」


私はすっかり混乱してしまっていた。
まさか、否定されるなんて思ってもいなかったのだ。孫兵なら、兄なら、わかってくれると思い込んでいた。


「だからっ、私、変わりたいって思って、このままじゃ駄目だからっ!」
「このままでいいよ、望美。変わる必要なんてない」


一刀両断だった。
私の決意と勇気を全否定されてしまった。どうして、疑問ばかりが頭を過ぎる。
痛いくらいに握られた手が汗ばむ。翳った孫兵の紅い双眼が私を見据えている。


「ど、どうしてそんなこと言うの‥‥?」
「どうして?僕が聞きたいよ。どうして変わる必要がある?変わらなくてはいけない理由があるのか」


理解しようとしてくれない兄にもどかしさを覚える。
そこで初めて私達の価値観の違いに気付かされた。違う、私と孫兵では、根本的に考えが違う。
わかってくれる、くれないの問題ではないのだ。孫兵にはわかろうとする気なんて微塵もなかった。


「私は、このままじゃ、孫兵なしじゃ生きてけなくなっちゃうよ‥‥だから、自分のことくらい自分で決めたい、自分で‥‥」
「大丈夫だよ、これからも全部、望美のことは僕が決めてあげる」
「っ!!」


思いも寄らない物言いに絶句した。
もう彼は私の知る孫兵ではなかった。
信じられないし、信じたくなかった。孫兵がそんな風に考えていたなんて。
胸の奥底からふつふつと感情が湧き出てくる。
我慢ならなかった。それを、孫兵本人から言われることはどうしても我慢ならなかった。


「ま、孫兵は、まだ私に惨めな思いをさせたいの‥‥?私はもう、優秀な兄なしじゃ何もできない妹なんて、言われたくないの!わ、私は、私はもう、孫兵から離れて自立したいのよ!」


叫び終わったのと同時だった。
視界が暗転して、気付いたら天井越しに孫兵の顔が見えた。
一瞬のことで理解できなかったが、頭は直ぐに追いついた。孫兵に押し倒されたのだ。先程まで私の手を握っていた手は、私の手首をシーツに縫いつけている。
孫兵は私の上に馬乗りになって微動だにしなかった。逃げようとしても力の差は歴然だった。
ーー孫兵、名前を呼ぼうとした。刹那、痛いくらいに孫兵の瞳が私を刺した。望美、ゆっくりと孫兵が私の名前を呼んだ。



「僕を裏切るのか」



今までに見たこともないような形相だ。
身体の芯から震えた。生まれて初めて、孫兵が、孫兵自身が怖いと感じた。


「あ、‥‥あ、ま、‥‥まごへ‥‥」


恐怖を素直に感じ取った涙腺が緩む。
あっという間に涙が滲んで、大きな粒となってこぼれ落ちた。
思い返してみれば、孫兵は一度だって私に怒りの感情を顕にしたことはなかった。だからだろうか、余計に目の前の孫兵に耐えることができなかった。


「っ、うっ、ひっく‥‥っ」


情けないことに、為す術もなく私はひたすら泣いていた。
もうそれ以外どうしたらいいかわからなかった。何もかもが異なる兄に掛ける言葉も見つからない。
こんな、こんなつもりじゃなかった。この決意を孫兵に認めてもらいたかっただけなのに。どうしてこんなにも食い違ってしまったのか。
止めどなく流れてくる涙と共に途方に暮れる。




「‥‥‥‥望美?」



息を呑んだような孫兵の声。


「っ、望美、ごめん、泣かないでくれ」


我に返ったように孫兵は勢いよく飛び上がる。その表情は一変していた。
まるで壊れ物を扱うように私の頬を優しく包み、涙を拭った。


「ごめん、ごめん望美、僕が悪かった。望美が急に僕から離れたい、なんて言ったからカッとなっちゃったんだ。どうにかしてた、頭を冷やすよ」


眉を顰めて、必死に私を宥めようとする。
それはいつもの孫兵だった。いつも通りの、優しい兄だ。
その姿に安堵して、涙が自然とおさまった。


「孫兵‥‥」

「さっき言ったことは忘れてくれ」


両頬を包んでいた手が背中にまわる。
そのまま孫兵は私の胸元に顔を埋めた。


「好きなんだ、ただ好きなだけなんだ望美」
「私も孫兵のこと好きだよ」


切なる孫兵の声に私も同意する。
けれども孫兵は一層、悲惨な表情をしていた。戯言のように、違う、と呟く。
その姿が初めて私達が和解した時の孫兵と重なって見えた。今にも消えてしまいそうな、儚さを秘めていた。その儚さをあの時の私は美しく感じたのだ。恐る恐る、孫兵の背中に手を添えた。直後にまわされた孫兵の腕に力が篭った。


それがとても痛かった。












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