此処に来てから一週間は経過したのだろうか。一夜を数回重ねても、相変わらず此処の空気は淀んでいて、とても殺伐としていた。 いつになっても寝台の冷たいコンクリートの温度に慣れることはないし、彼らの突き刺さるような視線を受け止めきることはできない。 きっとあと何度夜を越えったって全てに順応することはないのだろう。それほどに私の家は、家族は、温かった。 瞼の裏側に浮かぶ情景に無意識に涙の膜ができる。 私はすっかり参ってしまって、弱くなってしまったのだろうか。少し前までならばこんなにも簡単に心折れそうになることはなかった。あの日から、私が居なくなってしまいそうで、怖くて堪らない。彼等の恐怖に屈して自分が自分ではなくなる。全てを失って、自分まで見失ってしまったら、私はーー。 「調子はどうだい、お嬢さん」 抑揚のない声が静寂を裂いた。 何時からそこにいたのかわからないほど、声の主は自然に佇んでいた。私が最も苦手としているあの男だった。 「……いつのまに」 「今し方。近頃色々と立て込んでいてね。君の様子がずっと気になっていたんだけど、時間が取れずにいたんだ。どう?此処での暮らしは何か不自由はしてないかい?」 男の言い分だけ聞いていれば、新天地に越してきた恋人を優しく気にかける紳士のようだ。 しかしながら、彼は恋人でも、心優しい紳士でもない。私を攫って監禁しているグループの長なのだから。 人当たりの良さそうな表面に反して、何を考えているか読み取れない裏が怖い。何が、不自由はしていないか?、だ。この個室に閉じ込められていること自体が不自由にきまっている。けれども、そんなことを素直に口にはできない。彼が私の命を握っている。反抗的な態度を取って、彼の機嫌を損ねるようなことはしたくない。 「……」 「……まぁ、確かに此処は快適とは言い難いかもしれないな」 考え込むように腕を組んでいるリーダー、黒木庄左ヱ門を前に私は黙り込むことしかできなかった。 この狭い空間で庄左ヱ門と二人という居た堪らない空気が嫌だった。彼の存在感に押し潰されて顔を下に向けようとしたときだった。何かがそっと頬を掠めた。 「君、泣いていたの?」 庄左ヱ門の手が頬から移動して顎を持ち上げた。 「なっ、なにす……」 パシッと乾いた音が響く。ーーやってしまった。反射的に彼の手を弾いてしまった。咄嗟の事で考える時間がなかった。彼は怒ってしまっただろうか。彼はーー。 「ご、ごめ……な…さ…」 「……」 彼は払われた手を静かに見つめていた。相変わらず何を考えているか読み取れない。 全身から血の気が引いていく感覚が私を襲う。どうしよう、どうしよう、どうしよう!制裁が下される!彼が紡ぐ次の言葉が恐ろしい。まだ死ねないのに! 最悪の事態が頭から離れない。あぁ、一体、どうすれば、兄さん! 彼の目に今の私の姿はどれほど滑稽に映っているだろう?つい先刻忠告したばかりだというのに、私は自分から死に急ぐような反応を示してしまった。 無表情の裏側で彼は嘲笑っているのだろうか。彼はーー。 「君は些か、気を張り過ぎているのではないかい?」 「……え」 「うん。確かにこんな所に閉じ篭っているのは精神的にもよろしくないな。ーーちょっとついておいで」 踵を返して彼は足を進めた。対して私は状況を呑み込めていなかった。 けれども彼は私に理解する時間を与えるつもりはないようだったので、仕方なく一歩を踏み出した。 こんなに、すんなりとあの部屋から出られるなんてーー。 もしかして罠ではないのだろうか? 頭に不安が過ぎる。廊下の肌寒さが余計にその不安を沸き立てた。 伏せ目がちに周りを見渡すとお世辞でも清潔とは言えないコンクリートの壁が真っ先に目に映った。長さのない廊下からは様々な方向から笑い声や怒鳴り声、金属音が響いている。 以前、廊下を歩いた時は周りを気にする余裕などなかったので、初めてしっかりとアジト内を見た。 生まれた時から住んでいた家とは何もかもが異なる室内を見て、これからの生活に不安ばかりが募っていく。こんな所で暮らしていたら、病気になってしまいそうだ。彼らは平気なのだろうか? 「君のお屋敷とは全然違うだろう?」 「っえ」 背中を向けて足を進めたまま、急に庄左ヱ門が口を開いた。 内心を覗かれたことに、私の心臓が音をたてる。口に出してしまったのだろうか?焦りと共に脈が速度を上げていく。 「君がそう感じるのも無理はないさ。全国でもごく僅かの貴族。その中でも今をときめく寿洲貴伯爵のご息女。大層、煌びやかな日々を過ごしていた筈だ。そのようなお嬢様が下界の暮らしぶりに難色を示すのは当たり前だよ」 「違っ、私はそんなつもりじゃ、ただ、私は、衛生上の問題とか、その」 「はは、そんなもの命と比べたら安いものだろう?君は生まれたその瞬間から塵一つない空間で暮らしてきたから不浄には敏感なんだろう。ーーけれども外側の人間は違う。生まれた時からこの空間で暮らしているんだ。年端のいかない子供の頃から銃弾が飛び交うこの世界で命の危険に怯えながら一日を終えるーー。そんな人間に家の衛生を気遣う余裕などない。紛争に巻き込まれないように住処も転々とするから尚更さ」 「……」 絶句した。まるで本の物語のような内容だ。彼が言ってることは本当なのだろうか。そのような世界で、人間は暮らしていけるのだろうか。平常心を保っていられるのだろうか。 内地と外地でこれ程にも差があるというのだろうか。私は、私はーー。 「あぁ、別に君が懸念する必要はないよ。それが当たり前なんだから。彼等にとってこれは当たり前なんだよ。だから誰も自分の身の不幸を嘆く者などいない。当たり前だから」 「……当たり前」 「まぁ、ただ一つ言えることは僕等の当たり前と君の当たり前は違うということさ。君は自分のものさしで僕達を測ろうとするから僕達を理解することが出来ない。ーーーこれは僕等にも言えることだけれども」 庄左ヱ門のその言葉に頭をガツンと殴られたような感覚がした。 くらり、と軽い眩暈がした。これが恐怖心、罪悪感、何からくるものかはわからないが、とにかく頭の中が渦を巻いている。 私の当たり前、彼等の当たり前。私は主観的であるから彼等を理解することは出来ない。……理解する必要などあるのだろうか。彼等は私の家族を奪った相手なのに。でもーー。 「おっと、話ている間に着いてしまった」 急に庄左ヱ門が立ち止まったので顔面を彼の背中にぶつかってしまった。 「さぁ、着いた。此処は僕の書斎だよ」 彼はドアノブに手をかけてレディーファーストの精神に倣い、私の腕を掬いとる。 「お嬢様、お先にどうぞ」 一抹の不安と焦りを孕みながらも、促されるまま、私は足を踏み入れた。 |