一度これだと決めつけてしまったのなら、中々その概念を捨てることはできない。きっとそれは私だけではなくて。 身近で例えるのなら、1組の生徒の皆さん。特進科という我々普通の生徒からしてみれば、それはそれは重量感のあるレッテルを貼られた彼等とは、同じ学年の生徒と言えども、やはり隔絶された違和感を感じてしまう。 だから、私は彼等に偏見を持っていたのかもしれない。頭が良い=硬い、負けず嫌い、暗い、ガリ勉、そんな小学生のような単純な思考回路しか持てなかった過去の自分。よく考えて見れば彼等だって私達と何一つ変わらない人間なのに。無意識のうちに彼等を遠ざけようと線を引いていた。私達が彼等を避けるように、彼等も私達の領域に踏み入らないように。けれども、そんな故意で分割した空間などは何の意味も持たなかった。 その偏見と独断で絡み付いた線を、上ノ島くんは難なく越えてしまったのだから。 「ほら、ここ間違ってる」 「あ、本当だ」 上ノ島くんの長くて綺麗な指先がノートの上を滑らかに滑り、間違いの原因を指す。それと同時に頭上から聞こえてくるわかり易い解説をBGMにして、彼のことを考える。 上ノ島くんは私の中の1組という概念を大きく変えた。並行して、私の1組への偏見を見事に捨てさせた。 あの厳格な雰囲気とは反対に柔軟な雰囲気を漂わせる上ノ島くん。彼ほど1組らしくない生徒を私は知らない。いや、逆にこんなにも1組らしくない生徒は彼しかいないのだと思う。 心地良い彼の声を浴びながら、理解したように頷いてみる。不意に上ノ島くんの動きが止まった。不思議に思って顔を上げると視界に広がる右手。そのまま額に感じる鈍い痛み。 「......痛い」 「話、聞いてなかっでしょう」 ムスッと頬を膨らませて私を見据える目の前の人物は、男とは思えないほど可愛らしい。怒られていると解っているのに無意識に口元が緩んでしまう。その瞬間を彼が見逃す筈もなくて。 そんな態度が再度、彼の不興を被ってしまうのである。 随分と余裕なんだね、と拗ねたように上ノ島くんは呟いた。 「余裕?どうして?」 「勉強を教えて欲しい、って頼んで来たのは君だよ」 「うん。そうだけど」 「試験が近いからでしょう」 「えぇ、まぁ」 「考え事なんてしてる暇、無いんじゃないの」 温厚な上ノ島くんが珍しく苛立っている。率直な感想がソレだった。 きっと私の不躾な態度に腹が立っているのだろう。わざわざ彼の時間を割いて勉強を教わっているのに、上の空だった私に。その上怒られている身ながら不謹慎にも可愛らしいなどと思ってしまったこの私に。 「上ノ島くんのことを考えていたの」 答えた瞬間に彼の子犬のような目はより一層丸くなった。ガラス玉のように、クリッとした丸い瞳。 「.......僕のこと?」 「えぇ、貴方のことを」 感慨深そうに聞き返す彼を肯定するように頷く。 微妙な沈黙が滞り、居た堪れなくなって顔を下に向ける。それは避けるようにそっと重なる手の温もり。長くて繊細な指の感触。上ノ島くんの手。 息を呑むほどの痛い視線が向けられているのが解る。 「か、上ノ島く、」 まるで刃で突き立てられたような痛み。たかが視線にそのような効力などない筈なのに。 鋭い痛みに耐えられなくなって、恐る恐る顔を上げた瞬間。心臓を掴まれたように動かなくなった身体。上ノ島くんの視線と私の視線が歯車のようにかっちりと噛み合って外れない。 周辺の空気全てが静止して彼は全ての動作を停止させ、静かに口を開いて、こう放った。 「ーー答え合わせを、しようか」 答え合わせ、確かに彼はそう言ったけれど、まだ全ての問題を解き終わっていなかった。 それにこれから答え合わせをするといっても、彼は手を添たまま動こうとしなかった。赤ペンを握る動作すらしようとしない。 「僕はね、数学が好きなんだ。その中でも特にちょっとした複雑な計算式がね」 「 ........は?」 「どんな難題でも手順を追って的確にじわじわと攻めれば、確実に答えに辿り着くでしょう?」 彼の話の展開についていけなくて、頭が混乱する。いつ私が彼の好きな教科を聞いたのだろうか。 答え合せをする、と先程言ったばかりなのにもう話題が逸れてしまっている。 「か、上ノ島くん、」 「僕は計算しているんだよ、今も、すこし厄介な計算式に直面していてね。もう少しで解けそうなんだけど。あと人押しってところなんだ」 「な、何を言って、」 「山田さん」 上ノ島くんの丸い目が、細くなり、まるで捕食者のように、ギラギラと瞳の奥に眠る光をちらつかせる。 そこには普段の可愛らしい彼は居なくて。人が変わったかのように一瞬にして表情を変えた。高鳴った胸の音は、恐怖ゆえなのか、それともーー。 思わず後退ると、逃がさないと言わんばかりに私の腕を掴む上ノ島くん。 触れたところから熱いくらい彼の熱が私の身体中に伝わる。 山田さん、ともう一度私の名前を呼ぶ。 「僕のこと、好きでしょう?」 好きだよね?、と念を押すように瞳で私を捕らえる。 前言撤回。私は、なんていう勘違いをしていたのだろう。当たり前過ぎることを忘れていた。彼は、上ノ島くんは紛れもない、1組の生徒だということを。 きっと彼は初めから解っていたに違いない。解った上で、計算していた。 数学好きの彼は、ゆっくりとしかし着実に私の心に潜り込んできた。じわじわと侵食し、私が確実に彼のことを好きになるように。少しの計算ミスも許さないように。 私がたった一つの答えしか導き出せないように。 「わ、私はーー」 きっと肯定しか許されない。いや、最初からそれしか選ぶ余地がない。 彼が言ったように、どんな式にも答えは一つしかないのだから。 答えなんて解りきっているくせに、それでも尚、私の回答を待っている彼に昨日までの面影は見当たらない。 もうお世辞にも可愛い、などとは言えない。彼は子犬の皮を被った狼だ。 しかし、気付いたところでもう手遅れだった。愚かにも私は彼の策にもう嵌ってしまっている。彼に堕ちてしまっている。彼の本性を知ってしまった今でも、その想いが募っていくのが解ってしまう。 もう一度目線を合わせると、普段のように愛らしい笑みを浮かべる上ノ島くんが居た。 ーー私はとんでもない人を愛してしまったのかもしれない。 昨日愛した怪物 (その男、魔性なり) 企画:『馬鹿と咆哮』様、提出 - |