なんということでしょう。
□18:臆病に揺れ揺れる
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潮の香りがツンと鼻を刺激する。
心地よい風に身を委ね、緩やかな波を見つめる。
一昨日から大川学園はテスト週間に入っていた。殆どの部活は停止になるが、私が所属している女子バレー部と兄が所属している男子バレー部は例外であった。普段より活動時間は短いが、その分メニューが凝縮されていて、部員の負荷は大きい。
女子バレー部は男子バレー部よりも少し早く終わったので、学校付近の海岸で兄と待ち合わせをしていた。
誤解を招くのは癪なので断言するが、今日はたまたま兄と一緒に帰宅するだけであり、いつも一緒に帰宅しているわけではない。本当にたまたまなのだ。
いつも通り部活が終わって帰ろうとしたら、まだ練習着の兄が話したいことがあるから一緒に帰ろうなんて言い出した。その時点で悪い予感しかしなかったので無視して帰ろうとしたが、その後が怖かったので結局大人しく兄を待つことにした。
海に沈みゆく夕日を眺めながら誰かを待つなんて、とてもロマンチックじゃないか、と感慨深く頷いてみるけどその相手が他でもない兄なのだから、ロマンチックの欠片もない。
待つ相手が恋人だったらどんなにいいか。寂しい身の上に我ながら溜息が零れた。
「あれ?七松じゃないか」
絶妙なタイミングで入り込む一声。
聞き覚えのある声に一瞬、心臓が止まった。
「え、ま、ま間切さん!?」
「やっぱり七松じゃないか」
思いも寄らない人物の登場に動悸が激しくなる。
確かにずっと会いたくて焦がれていたけれども、こんなタイミングで再会するとは思っていなかった。
一週間振りの間切さんは勿論、少しも変わっておらず、微かに潮の香りがした。
「お前こんなところで何してんだよ」
「ま間切さんこそ、どうして海に?」
「あー、俺は部活だよ。今、ちょうど終わったから片付けしてたところ」
部活、と答えた間切りさんを改めて見ると、ビーチサンダルにアンダーウェア、その上に通気性のよさそうなTシャツを着ていた。
膝からしたは濡れていて、手にはグローブらしきものを着けている。
「ぶ、部活?海で?」
「あぁ、俺ボート部なんだ。いつもそこの海で練習してんだぜ」
「ボート?あの恋人とかが公園の湖とかで漕ぐ?」
「ちげぇよ!あんなのと一緒にすんな!競技ボートだよ。すっげぇハードなスポーツなんだぜ。‥‥まぁ、ボート部なんてそうあるもんじゃないし、よく知らなくても仕方がねぇけど」
ボート部。大川学園にはない部活だ。
初めて聞いた部活だけど、そうか間切さんはボート部なのか。新たな情報を得て少し嬉しくなる。
「間切ー、何してんの?早くオール仕舞っちゃってよ。海面挨拶したいから」
砂浜から一人の青年が駆けてくる。
どうやら彼もボート部の部員らしい。間切さんと同様、健康そうな肌色をしている。
「あれれ?この子誰?間切の知り合い?」
「あぁ、こいつは大川学園の二年で、七松って言うんだ」
「初めまして。七松雛です」
「うわ、二年生?先輩じゃん!初めまして〜、俺は兵水の一年、網問です。ボート部所属で間切とは幼馴染みでーす」
「網問は俺とダブルスカルを漕いでるんだ」
海で活動しているとは思えないほど綺麗な毛並みをしていて、何より身長が大きい。間切さんも大きいほうなのに、彼と並ぶと網問くんのほうが頭一つ分も飛び出ている。
そしてやはり、間切さんの言った通りハードな部活なのだろう。二人とも筋肉質な体型をしている。全身が筋肉で引き締められている。お尻なんかは絶対に私より小さい。自分で言うのも虚しいが事実だ。
「あ、こんなことしてる場合じゃないよ間切!義丸さんが呼んでたよ、ストロークコーチが一個足りないって」
「やっべぇ!俺、首から下げたままだ!早く返してこねぇと!」
「早く行きなよ」
「おう!じゃあ七松悪いまたな!」
「あ、うん!お疲れ様です!」
風のような勢いで間切さんは去っていく。
前もこのような別れ方をしたような、と思い返しながらも再びまた彼と出会うことができた喜びを噛み締めた。
もしかしたら、あれきりになってしまうのではないかと思っていたのでとても嬉しかった。
密かに喜んでいる私を横目に未だ部活の輪に戻らない網問くんが口を開いた。
「七松さんてさ、間切のこと好きでしょ」
「‥‥‥‥え?」
「実は間切に声をかけるまえから二人の様子を窺ってたんだ。ビンゴだよね?」
「な、ななな何を仰るのかな‥‥?あ、ああああ網問くんは」
「いや、バレバレですけど」
飄々とした口ぶりで網問くんは言ってのけた。
まさか初対面の網問くんに気付かれるとは、自分の恋心はどれほど露呈されているのか。いや、逆に網問くんが目敏い子なのかもしれない。瞬時に私の恋心を察知したのかもしれない。‥‥網問くん、恐ろしい子‥‥!
あまりの動揺に舌は噛むし、身体は尋常でないくらい震えるし、散々だ。
「でもダメだよ」
スっと網問くんから笑顔が消える。
私から視線を外した網問くんは遠い目で海を見つめた。
先程までのあどけない網問くんの姿はそこにはなくて、少し愁いを帯びた彼がいた。
「間切には大切な女の子が居るんだ」
「雛、待たせたな」
「‥‥‥‥」
「‥‥雛?」
「あ、お兄ちゃん」
網問くんと別れて数分経った後、兄が姿を現した。
急いで来たのだろうか。ワイシャツはズボンからはみ出てているし、ネクタイは盛大に曲がっている。
そのくせ、息は切らしていないのだからやはり体力馬鹿だ。
「随分、待ったか?」
「ううん、少しだけだよ」
「‥‥そうか。じゃあ帰るか」
「うん」
私と歩幅を合わせて兄は歩き出した。
頭の中で網問くんの言葉がリピートされる。何回も、何回も。
見ている方が切なくなるような網問くんの表情がこびり付いている。
『間切には大切な女の子が居るんだ』
『その子は俺たちの幼馴染みで…‥‥‥‥俺も間切も、昔からずっと一人の女の子に恋をしている』
『‥‥だからさ、間切のことは諦めてよ』
こんなものか、と短すぎた自分の淡い恋心を振り返る。
今まで一度だって自分の恋が成就したことなんてなかった。最初から上手くいくなんて思っていなかったし、失恋なんて慣れっこだ。
ーーでも、何とも言えないこの空虚感は何だろう。
あそこまで網問くんにはっきりと言われたんだから、素直に諦めればいいのに。
「‥‥雛、何かあったのか」
「え、何もないよ。お兄ちゃんこそ何か話があったんじゃないの?」
「‥‥私のはいいんだ。大した話じゃない」
「そっか」
珍しく兄は悪ふざけをしなく、殆ど会話がないまま家路を辿った。
それでも私の頭の中は網問くんの言葉で占められていた。
風は止み、緩やかであった波もただ静かに波を打つ。
夕日はとっくに沈んでいた。
(間切も罪な男だねー)
(何言ってんだ、早く帰るぞあいつ待ってんだから)
(はーい)
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