血の記憶(R18)
□悪夢
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お母さん!お母さん!
美しく咲きほこる桜並木を、蒼依は急いでいた。それなのに、水の中を走るかのように身体が重く、桜のトンネルはどこまでも続いている。
速く!速く!速く!
その先に何があるのか、蒼依は知っていた。もう手遅れだとわかっていた。それでも、走るのをやめられない。
辺りの桜はしだいに赤みを帯び、今では真っ赤になっている。目の前には血に染まった母が、棄てられた紙くずみたいに身体を縮め転がっている。鉄錆のような、むせかえる血の匂い。そして、赤!赤!赤!
「お母さん!」
蒼依は自分の叫び声で目覚めた。息が上がり、パジャマが汗でじっとり湿っている。震えながら起き上がり、パジャマの袖で涙をぬぐった。
またあの夢だ。ここしばらく見なかったので、油断していた。きっと、昨日のドライブのせいだ。
あのとき、晃聖が絶壁目指して疾走していたとき、自分が生きることに執着していないのに気づいた。
苦しい記憶もろとも海中深く沈んでしまえばいい。心は冷え切り、投げやりだった。
それなのに彼は気が変わり、説教までした。
そして捨て去ろうとした記憶は悪夢となって、仕返ししにやってきた。繰り返し繰り返し過去を見せ、蒼依を苦しめる。
夢を締め出そうと、膝を抱えて丸まった。
ところが部屋のチャイムが鳴り、自己憐憫に浸るどころではなくなった。
こんな時間に誰だろう?
枕もとの蛍光時計は六時を表示している。
苛立っているのか、チャイムは再び短く二度鳴った。
隣りの新妻だろうか?こんな時間に?
彼女は蒼依と同じ年の新婚だった。夫婦喧嘩して部屋の前で泣いていた彼女に声をかけたのがきっかけで、仲良くなった。
謎の訪問者は、今度はドアを叩いている。
蒼依は顔をこすって涙のあとを消し、ドアを開けにいった。
謎の人物は隣りの新妻ではなかった。ドアを開けたとたん、真崎晃聖がしがみついてきた。
勢いで蒼依はよろめき、しりもちををつく。一瞬呆然としたものの、すぐにわれに返った。
「ちょっ!放して!」
「なんでだぁ?」晃聖がろれつの回らない言葉を彼女の首筋につぶやいている。「何で死ななきゃならない?」
蒼依は質問されているのにも気づいていなかった。羽交い絞めにされ、動くのもままならない有様だ。彼から逃れようと腕を突っ張ったが、逆に床に押し倒れてしまった。
晃聖は暗い目で彼女を見下ろしたかと思うと、せっぱつまったように唇を押しつけてきた。
口を塞がれ、声もあげられない。脳裏にレイプの文字が躍った。
すぐに大声で助けを呼べばよかった。
床に押さえつけられ、押し返す腕がだるい。彼の身体は重く、抵抗する体力は残りわずかだ。
うまく呼吸ができず気を失いそうになったとき、ようやく彼の唇が頬から耳元へと滑っていった。
蒼依は新鮮な空気を求めて、息をあえがせた。声をあげようにもあげられない始末だ。呼吸を整える間に、晃聖がぐったりしているのに気づいた。
「ちょっと!」
応答がない。呼吸はしているが、身動きひとつしない。
蒼依は彼を押しのけ、下から抜け出した。
晃聖は仰向けに転がり、眠っていた。
蒼依はパジャマの袖で、ぐいっと唇を拭った。
さっきは危ないところだった。死ぬほど人を怖がらせておいて、よくもずうずうしく眠れるものだ。
落ち着きを取り戻すと、服を着替えた。いつまでも無防備なパジャマは危険だからだ。防備を整えると、上がり口に眠りこける晃聖をじっくり観察した。
彼はさっきからまったく動いていなかった。靴ははいたままで、服は乱れ、くしゃくしゃの髪が額にかかっている。呼吸に合わせ、胸の上で大きな手が上下していた。
思い返してみると、彼は酔っていたようだった。それを証明するように、近づくとアルコールがぷんと匂った。
とにかく追い出さなければならない。
「真崎さん?」
ぴくりとも動かない。
「起きてください」
相変わらず規則正しい寝息をたてている。
蒼依は迷った末、こわごわ近づき肩を揺すってみた。まるで、眠っている獣を起こしている気分だ。
何の反応もない。
もう一度、さっきより強く揺すってみた。
「真崎さん!」
今度はぼんやりと目を開けた。どこにいるのか、わかっていないようだ。
「起きてください」再び眠ってしまわないよう、かがみ込んで声をかける。
晃聖は彼女を見あげて、目をしばたいた。
「どうした?」
何が『どうした?』だ。
「さあ、起きて!」急かした。
「わかってるよ」そう言って、目を閉じる。
「真崎さん!」
「晃聖だよ」不明瞭に言い返し、のろのろと上半身を起こした。だが目は閉じたまま、立ちあがろうともしない。
「帰ってよ!」いい加減、言い方もきつくなってくる。
「部屋が揺れてる」彼は薄く片目を開け、そして閉じた。
蒼依はしびれを切らし、彼の腕を掴んで引きあげた。
晃聖は立ちあがろうとしたが、バランスを崩した。
それならば、と彼の腕を自分の肩に回し、再度挑戦する。
今度はどうにかよろよろと立ちあがった。
だが彼の体重がもろに肩にかかり、足を踏ん張らなければならない。しかも玄関へうながそうとしたとたん、彼がよろめいたのに巻き込まれ、もろとも崩れ落ちた。
蒼依は息を荒げて、立ちあがった。
足元の晃聖は軽いいびきをかいている。
蒼依は深いため息をついた。
どうしようもない。外へ放り出しても、玄関の前で眠りこけてしまうのは目に見えている。いくら迷惑な人物とはいえ、そこまで非情にはなれなかった。
かといって、いつまでもぐずぐずしていられない。仕事があるのだ。さっさとこの事態に決着をつけ、出かけなければ遅刻だ。
覚悟を決めてからの行動は早かった。まずは靴を脱がせる。上着を脱がそうとすると、晃聖はうっとうしそうに彼女の手をはらった。かまわず彼の脇の下に両手を入れて上半身を引き起こし、一気に上着を脱がせた。
奥の部屋まではなんとか彼を引きずっていったが、そこからが大変だった。酔っぱらった大男を相手に、すったもんだしてようやくベッドに横たえたときには、息を切らしクタクタだった。すでに緩んでいたネクタイをはずすとき、蒼依は初めて彼の顔をまじまじと見た。
泥酔していても、彼はやっぱりイケメンだった。蒼依の知っているハンサムとは違う種類のイケメンだ。眠っているため、いつも鼻につく自惚れた目の輝きもない。
彼がホストでなかったら、私はどうしただろう?
ふと浮かんだ考えを振り払うように、ネクタイをシュッと抜き取った。そのあと布団を掛けたときも、部屋を出るときも、決して晃聖を見なかった。
蒼依はシャワーを浴び出勤の準備を終えると、メモとスペアーキーを残し部屋を出た。