血の記憶(R18)
□友情
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蒼依は寝不足のまま朝を迎えた。続く睡眠不足のせいで、目の下には隈ができている。
あの夢を見た後で眠れるはずがなかった。理由はそれだけではなかったが、極力、考えないようにしていた。
それなのに、片づけられたテーブルやキッチンを見ると、つい晃聖のことを思い出してしまう。しかも冷蔵庫を開けると、見覚えのない食材が並んでいた。
蒼依は朝食を諦め、扉を閉めた。
どうしようもなくイライラする。彼の残像はちらつくし、隈はしぶとい。手をこまねき、古いドレッサーを小刻みに指で叩いた。
このドレッサーは母の物だった。子どもの頃、兄がナイフで刻んだ傷がついている年季ものだ。
あの頃は素晴らしかった。母は幸せそうで、家族は仲がよかった。貧しかったが、愛情に包まれていた。父が出ていくまでは……。
蒼依は不愉快な思い出を締め出そうと、ぎゅっと目を閉じた。そうやって父の面影が消え去るのを待つ。これまで過去を棄て去ろうとすることで平静を保とうとしてきた。
それはことごとく失敗に終わっている。過去は絶えずつきまとい、ちょっとした刺激ですぐに血を流す。
傷は今も生々しく、父への憎しみと相まって、生き方に、考え方に大きく影響を及ぼしていた。そのせいで、晃聖の前で醜態をさらす羽目になったのだ。
蒼依は記憶に翻弄され、疲れ切っていた。
過去を消せたらいいのに。いっそあのとき、あの高台で、彼が本当に飛んでくれていたらどんなによかったか。
だが、それはわがままというものだ。実際、彼は大いに人生を楽しんでいて、そんな気などまったくなかった。
過去を変えられないことは、わかりすぎるほどわかっている。問題はこれからだ。
家族に会いたい。裏切り者の父は問題外だが、兄に帰ってきてほしい。悲しみを分かち合える相手が欲しかった。
しかし叶わぬ願いだ。ある日プイッと出て行った兄は今もどこにいるかわからないし、兄も私の居場所を知らないはずだ。結局は、このままひとりで耐えるしかない。
蒼依は虚しい願望に見切りをつけ、立ち上がった。
外は小雨が降っていた。蒼依は顔をしかめて部屋に戻り、傘を持って出る。
憂鬱だ。今日の電車は混むだろう。
蒼依は小走りに階段をかけ下りた。見覚えのある黒い車に気づいたのは下に着いてからだった。
晃聖が車から降りてきて、彼女を見つめる。
彼は蒼依に愛想を尽かしたはずだった。もう会うことはないだろうと思っていた。驚き、苛立ち、そして、それだけでは割り切れない思いが残った。
「会社まで送るよ」雨に打たれながら、晃聖は申し出た。
これまでの彼女の対応を考えたら、断られる可能性が高い。それでもやって来た。来ずにいられなかった。
「ありがとう」長い間彼を見つめ、ようやく蒼依が答えた。
正直、驚いた。半信半疑で助手席側のドアを開けてやる。
蒼依が生真面目な顔でお礼を言い、シートに腰を下ろした。どうやら本気のようだ。
どうして気が変わったのだろう?それとも、喜ばせておいて反撃するつもりか?
車道に出ていきながら、考えをめぐらせる。
すると、蒼依があっさりと答えをくれた。
「ゆうべはごめんなさい。迷惑ついでで申し訳ないのだけど、お願いがあって……」沈んだ顔に、さらに暗い影が差す。
「昨日のことは誰にも話さない、って約束してもらえませんか?」
赤信号で止まると、しげしげと蒼依を見た。
血の気のない必死な顔が、こちらを見ている。こんな頼みごとをするのは初めてなのだろう。
安心させたくて、口元を緩めた。
「人に言うわけないだろ」
みるみる緊張が緩むのがわかった。白い頬に血の気が戻り、小さなため息がもれる。
「ありがとう」
こっちまでいい気分だ。
「あれから眠れなかったんだな?」
蒼依が顔をそむけた。
「もし僕がホストじゃなかったら、も少し愛想よくしてくれたかな?」
彼女の視線が戻ってきた。彼の表情を探り、再び前方を見る。
「信号が変わったわよ」明らかに話題を変えようとしている。
後続車が苛立し気にクラクションを鳴らし、晃聖は仕方なく車をスタートさせた。
「ホストが嫌いなんだろ?」
「あなたを嫌ってるからって、どうしてそうなるわけ?」答えるどころか、訊き返してきた。また、いつもの拒絶の構えだ。
「きみの暗い過去には、ホストが関係しているんじゃないのか?」
「こんな話、やめない?」
晃聖は食い下がった。
「辛いんだろ?」
何の反応も返ってこない。また黙り込むつもりか?
なおも粘った。
「克服したくないか?」
蒼依は息を呑んだ。
確かにホストに過剰反応していることは認める。異常と言えるくらいだ。そのせいで彼の興味を引き、つきまとわれる羽目になったのだ。もし克服できるなら、すがりつきたいくらいだ。
方法を尋ねようとして、言いよどんだ。図々しい彼のことだ。お得意の手かもしれない。
「何が言いたいの?」
「トラウマを克服する方法がある、って言ってるんだ」
「どんな?」思わず訊いてしまった。
晃聖はチラリと笑顔を見せた。
「僕さ」
やっぱり!目を細めて、彼をにらんだ。
「嘘じゃないって。僕とつき合って、ホストが全部敵じゃない、って自分の目で確認するんだよ。免疫をつけるんだ。もちろん友達として。それ以上はだめなんだろ?」
「いやよ。どんな関係も一切――」
「そうやって逃げ続けてるから、未だに苦しんでるわけだ」
言葉につまった。
晃聖はしぶとく説得を続ける。
「ホストもきみと同じ人間だとわかれば、そんなに怯えてピリピリしなくてすむよ。僕らはいい友だちになれるって」
「別に怖がってなんか――」
「いいや、怖がってる。きみは傷つくのが怖くて、ホストを必死で拒絶している。図星だろ?」
蒼依は黙りこんだ。
すべてのホストがろくでなしとは限らない。それはわかっている。頭では。
ところが、心はホストどころか男性全般に対して不信感を感じている。例え友だちであろうと、ホストとつき合うなど寒気がしそうだ。しかも強固な壁を蹴散らし、部屋まであがりこんだ彼と、だ。下手をすると、今以上の苦しみを背負うはめになるかもしれない。
「そんなことして、何の意味があるの?あなたの罠かもしれないじゃない」
「女には不自由してないよ」
「それなら、私と友達になる必要はないでしょ?」
「ここまで乗りかかっておいて、このまま素通りできると思うか?気になって、仕事も手につかない。だから、これは僕のためでもあるんだ。そっちが解決すれば、こっちもハッピー、ってわけ。何か問題あるか?」
「それは……」蒼依は口ごもった。何も思い浮かばない。
「ほらな?何も起きてないのに、最悪ばかり考えてるから前に進めなくなるんだ。そんなに用心深いと、暗い過去があります、って宣伝してるようなもんだろ?」
図星を指されて、頬が熱い。自分の態度を見透かされていたことが、無性に恥ずかしかった。これまで、うまく周りに馴染んできたつもりだったのだ。
さらに彼が追い討ちをかけてきた。
「友達になるのもお断り、っていかにも意味深だよな?」
しつこく弱味をつつかれ、苛立ちがくすぶり出した。
「あなたみたいに皮肉ばっかりの人なんか、誰も友だちになりたがらないわよ」
「じゃあ、そういうのはナシだ。それなら、いいだろ?」
「いやよ」
「怖いんだな」晃聖が鼻で笑う。
蒼依は憎しみをこめて、彼の横顔をにらみつけた。
「勇気を出して、やってみろ、って。意外となんでもないかもしれないよ。そしたら楽になれる」
「どうして、そんなにこだわるの?あなたには関係ないでしょ?」
今度は晃聖が黙る番だった。
〈youサービスプロモーション〉が入るビルの前に車を停めると、蒼依をじっと見た。いつものふざけた雰囲気ではなかった。
「きみの叫び声が耳にこびりついている。泣き顔が頭から離れない。きみがその悩みから解放されたら、僕もきみから自由になれる気がする。そういう理由じゃだめかな?」
ふたりの視線がほんの一瞬絡み合った。
彼の言うように、免疫をつければ、まともになれるかもしれない。
「わかった。送ってくれてありがとう」
蒼依は彼に何か言うひまも与えず、車を降りた。晃聖の勝ち誇った顔を見たくなかった。