血の記憶(R18)

□血の記憶
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 彼の視線が届かなくなる寸前、蒼依はチラリと後ろを振り返った。

 予想した通り、晃聖は身じろぎもせず彼女を見ている。

 蒼依は足早に角を曲がり、乱れ打つ動悸を抑えた。きっと晃聖は、兄と同じルートをたどってやって来たに違いない。

 彼に気づいた瞬間、恥も外聞もかなぐり捨て、逃げてしまいたかった。かろうじてそれを踏み留まらせたのは、あろうことか彼の絡みつく視線だった。
 以前と変わらぬ激しさで惹きつけられた。逃げたいと思いつつ、むさぼるようにその姿を目に焼きつけた。
 明るかった茶髪は黒髪に変わり、チャラチャラした雰囲気は消えていた。荒削りな顔立ちが、前にも増して男っぽかった。広い肩が緊張をはらんで強張り、大きな手にさらわれそうな気がした。
 実際、彼がそうしようと思えば、簡単に実行できただろう。スラリとして見えるが、実は筋肉質なのだ。

 晃聖の様子は綾からときどき聞いていた。
 彼女の話では、晃聖は〈youサービスプロモーション〉に入社し、近頃はかけ持ちでカメラの仕事も始めたらしい。仕事は真面目で、女性関係もさっぱりないということだった。
 彼の雰囲気が以前と少し違って見えたのはそのせいかもしれない。

 しかし、蒼依に与える影響力は少しも衰えていなかった。それどころか、却って凄みを増した感さえある。
 一瞬腕をつかまれたとき身内にわきあがったのは、嫌悪ではなく切ないまでの思慕だった。彼の強引さも、ひと目でそれとわかる男の視線も、いやだと思いながら惹きつけられていた。
 一年かけて彼への思いを忘れ去ろうとしたのに、無駄骨だったと思い知らされた。
 今日は何とか逃げられたが、次もうまくいくとは限らない。きっと、ひと波乱もふた波乱もあるだろう。次の行き先を探した方がいいかもしれない。

 蒼依は動揺し、疲れを増した身体を引きずって部屋まで帰ってきた。震えの残る手で、鍵を差し込み回す。

 しかし、ドアは開かなかった。耳を澄ますと、かすかに音楽が聞こえる。
 蒼依は不安を抱きながら、今度は逆に鍵を回して解錠した。部屋に入って、まず目に飛びこんできたのは、男物の革靴だった。

 「お帰り」蒼太が向こうの部屋との境から、ひょっこり顔を出した。

 「ちょっと!」蒼依はいきり立って、部屋にあがった。「妹をビビらせて、おもしろい?どうやって部屋に入ったの?」

 「管理人さん。兄です、って言ったら、あっさり入れてくれた。なにしろ俺たちそっくりだからなぁ」あっけらかんと打ち明ける。

 蒼依は荒いため息をつき、窓辺の鉢植えを見にいった。小さな家が甘くはかない夢の名残のように、ぽつんと載っている。

 『あの植木鉢に合うと思ってね』晃聖はそう言って、これをくれた。
 何気なく言ったひと言を覚えていてくれたのだとわかり、うれしかった。あのときはもう、彼に惹かれ始めていた。
 こんなものを残しておくこと自体が、彼を諦め切れていなかった証拠だ。

 部屋の呼び鈴が鳴った。

 「お客だよ」動く気配もなく、蒼太がわかりきったことを言う。

 蒼依は兄をひとにらみし、ドアを開けにいった。

 訪問者を見るや、蒼依は気色ばんだ。
 「つけたのね?」奥にいる兄を気にして、抑えた声で非難した。
 あのまま彼が諦めて帰ると思うなんて、考えが甘かった。

 晃聖が食い入るように、彼女を見つめている。
 「また逃げられると思ってね」詫びれた様子もない。

 「ひどい人」

 「ひどいのはきみだ。あんな風に消えてしまって、どんなに心配したか」

 逃げたというのが罪なら、その罰は十分に受けた。うんざりするほどのときを後悔に費やしたあげく、無意味だったと思い知らされた。

 「恋人がいるとわかって、会えるわけないでしょ」鋭く指摘する。

 「知佳は恋人じゃない。それにきみは、その前から別れると決めていた。そう言って、俺の腕から抜け出しただろ?」

 そのときの光景が頭に浮かび、恥ずかしさに身もだえしそうだ。晃聖の乱れた女性関係もひどいものだったが、私の動機もかなり不純だった。
 しかし、それも彼への愛に気づくまでのこと。彼を追い払うのに忙しく、手遅れになるまで気づかなかった。

 「今度は逃がさないからな」晃聖が重々しく宣言した。

 脅されているのに、惹きつけられた。燃える視線で目の奥までのぞき込まれ、心が乱れる。飢えたまなざしが顔を愛で、胸のふくらみに這いおりてきた。視線ひとつで身体を撫で回され、いたたまれなさに叫び出しそうだ。
 ところがジーンズをはいた足元まできたとたん、彼が血相を変えた。目を怒らせ、唇を引き結んでいる。

 蒼依も何事かと足元に目をやった。
 そこには兄が脱ぎ散らした革靴がある。

 顔をあげると、ぎらつく目にぶつかった。すっかり情熱から軽蔑に変わり果て、つばでも吐かれそうな雰囲気だ。

 彼が勘違いしていることに気づいたが、真実を教えるつもりはさらさらなかった。
 これを利用して、彼を追い払ってやる。

 「男と住んでるのか?」晃聖が冷たい口ぶりで切り込んできた。

 「私の勝手でしょ?帰って」にべもない態度でなぎ払う。

 彼はますます頭にきたようだ。
 「俺が心配して捜している間、きみはさっさと次の男の腕の中にいた、ってわけだ。俺を練習台にして、男嫌いを克服したようだな?」目に嘲りの色を浮かべ、残酷な言葉で切りつけてきた。「また自分から抱いてくれ、と誘ったのか?それで、同棲はどっちが言い出したんだ?」

 過去をあてこすられ、歯を食いしばった。
 自分の女であるかのように馴れ馴れしく眺め回し、挙句の果て侮辱し、理不尽に責め立てるこの横柄な男を思いっきりひっぱたいてやりたい。大声でなじり、その鼻先で固くドアを閉ざしてしまいたかった。
 だが、兄の前で修羅場を演じるわけにはいかない。

 「帰って!」なるべく声をひそめ、そのひと言に嫌悪を込める。

 「このまま――」

 「蒼依?」兄が呼んでいる。

 晃聖が憎悪に燃えあがった。目に憎しみをたぎらせ、部屋の奥をにらみつける。

 「何?」蒼依は、彼を威嚇しながら訊いた。
 目を離したら、何をするかわからない感じだ。

 「どうした?セールスか?」

 「大丈夫」
 出てこないで!今出てこられたら、これまでの苦労が無駄になる。

 「セールスなら、俺が断ってやるよ」
 蒼太が向こうの部屋との仕切りに現れた。

 晃聖が一瞬驚き、次いでにやける。

 それを蒼依は苦々しく見ていた。

 「誰?」蒼太が誰にともなく訊く。

 すかさず晃聖が機嫌よく自己紹介を始めた。愛想笑いまで浮かべている。
 「僕は真崎晃聖。彼女の――」

 「真崎さんはもう帰るところ」それ以上しゃべらせまいとして、割り込んだ。
 何を言うつもりか知らないが、彼を自分たちの生活に立ち入らせるわけにはいかない。

 蒼太はふたりの顔を見比べ、晃聖に尋ねた。
 「急いでるの?」

 「とくには」

 「じゃあ、あがってもらえよ。俺に遠慮することないって」保護者気取りでおせっかいを焼く兄に、イラついた。

 「それじゃ、お言葉に甘えて、おじゃまさせてもらおうかな?」晃聖がいかにも無害そうに、彼女の顔色をうかがってくる。

 彼の厚かましさにむかつきながら、しぶしぶうなずいた。部屋にあがる彼がしたり顔を浮かべるのに気づき、いら立ちがつのる。

 「俺は藤島蒼太。いろいろあって、妹とは名字が違うんだ」

 「それにしても、よく似てるね。ひと目で兄妹だとわかったよ」

 身勝手な男ふたりのためにコーヒーを淹れながら、蒼依は交わされる会話に耳をそばだてた。

 「ところで、真崎さんいくつ」

 「二十九」

 「じゃあ、俺より三つ年上かぁ。それで、蒼依とはいつごろからの知り合い?」蒼太がジワジワと探りを入れ始めた。
 兄としての務めのつもりだろうが、大きなお世話だ。

 蒼依は、晃聖が何を言い出すか気が気じゃなかった。

 「一年ぐらいになるかなぁ」

 「ほとんど会ってないけどね」蒼依は口をはさんだ。

 「友だち?」と蒼太。

 「兄さん!そんなに根ほり葉ほり訊いて失礼よ」蒼依はたまらず遮った。

 「だって蒼依はそういうこと、ぜんぜん教えてくれないだろ?」

 「別にいいよ。彼女とは……友だちなんだ」
 蒼依がコーヒーを出すついでに鋭い視線で釘をさすと、晃聖はそう言った。

 とりあえずホッとしたものの、こんな際どい攻防にいつまでも耐えられそうになかった。

 「彼女は秘密主義だから、俺もほとんど知らないんだ。兄弟がいることも知らなかった」

 「ふたりして情報交換はやめてよね!放り出すわよ」

 男ふたりは顔を見合わせ、笑った。どうやら、よからぬ友情が生まれつつあるようだ。

 「じゃあ、真崎さんの話に戻ろう。仕事は何をしてるの?」

 「質問にお答えしまーす」調子に乗って、ふざけている。
 「ただいま写真家の卵、兼、男性コンパニオン」

 「へえー、男のコンパニオンなんかあるの?」

 「珍しいだろ。きみの仕事を当ててみせようか」

 晃聖の得意気な様子に、蒼太がニヤリとする。
 「どうぞ」

 「ホスト。当たりだろ?」

 蒼太は意外そうに眉をあげた。
 「なんで、わかったのかなぁ……?」

 「実は僕も――」

 「よくも――」蒼依はのんびり座っていられず、立ちあがった。

 ふたりが不思議そうに見あげてくる。

 「よくも、そんな……。よりによって、あいつと同じ仕事を選ぶなんて!」抑えた声が嵐の前ぶれのようだった。

 「蒼依?」蒼太が戸惑って、声をかけてきた。

 「あの頃は軽蔑してたのに、いつから気が変わったの?」兄をなじる。「それとも、女好きの血が騒いだ?あいつと同じ顔して、女たちといちゃついてるんでしょう?」

 「違うんだ!親父は――」

 「やめてよ!」
 父をかばおうとする気配に、怒りが一気に燃え広がった。狂暴な憤怒が憎悪を巻き込んで、蒼依を焼き尽くす。
 「あんな男をかばうつもり!?」

 今や兄は父と同じ裏切り者だ。感情を抑えられなくなり、兄を傷つけようと言葉を投げつけた。
 「そう言えば、兄さんは惨めさに耐えきれなくて逃げ出したんだったわね?あの後どんな地獄が待っていたか想像もつかないでしょう?」馬鹿にしたように兄を見下す。
 「私は最後まで見届けた。あの人のために母さんがどうなったか。あいつが母さんの人生をどんな風に踏みにじったか。母さんはあいつが帰るのを待っていたのに……、あいつがあんなものさえ送ってこなければ、母さんは希望を棄てたりしなかった」目が蔭り、身震いがする。
 「母さんは、あの人が送りつけた離婚届けに絶望して死んだ。手首を切り、それでも足りなくて、首を切って自殺した」

 ふたりが息を呑んだのにも、気づかなかった。彼女の意識は、血まみれの過去をさ迷っていた。

 壁に飛んだ赤い筋。たっぷりと血を吸った畳。血まみれの母。部屋にこもった血なまぐさい匂いが重くのしかかり、吐き気をもよおすほどだった。
 恐怖の悲鳴は喉につまり、身体中が震えた。腰を抜かして座りこみ、それでも、膝立ちで進んだ。
 だって、母を助けたいから。母まで失うわけにはいかないから。
 最初は何が起きたのか、わからなかった。母の元にたどり着いてようやく、凶器となったカミソリの存在に気づいた。鋭利な刃物は赤い水玉を載せ、右手に握られていた。すぐそばには握りつぶされた離婚届け。

 蒼依は恐怖にのたうつ心を支えようと、自らを抱いた。
 「動脈を切ると、どんなに血が飛び散るか知ってる?すごいのよ。部屋中、真っ赤で、どこもかしこも真っ赤で……」声がかすれて震え、途切れた。
 震えを止めようと、体にまわした腕に力を込める。腕に食い込んだ爪が皮膚を傷つけ血がにじんだが、心の痛みが強すぎてわからなかった。

 「私が見つけたとき、母さんはまだあたたかかった。出血を止めようとしたけど、止まらないの。指の間からどんどんあふれて、私の手も服も真っ赤になって……。私、怖くて、すごく怖くて……」

 「蒼依」晃聖のかすれ声が、むごたらしい告白を遮った。

 蒼依はようやく彼の存在を思い出した。

 いつの間にか彼は立ちあっがっている。驚愕し、青ざめているようだ。
 「かわいそうに……」

 同情に満ちた言葉が、蒼依をえぐった。しゃべりすぎた口を手でおおう。指先が濡れ、自分が泣いていたことに気づいた。
 過去を掘り返した苦痛と、べらべらと吐露してしまった自己嫌悪で自制心はぼろぼろだ。しかも涙が止まらない。

 今更遅いが、これ以上惨めな姿をさらすのも同情されるのもごめんだ。
 蒼依は涙を呑み込み、慰めを拒絶した。
 「これがあなたの知りたがってた私の秘密。もし助けてくれるなら、この記憶を消してくれる?母を生きかえらせてくれる?」晃聖に言った。

 晃聖は無言だ。

 憐れみの視線で見入られ、彼と目を合わせていることに耐えられなくなった。

 蒼依は顔をそむけた。
 「そんなこと無理よね。人を助けるなんて、軽々しく口にしないほうがいいわよ。告白はおしまい。さぁ、帰って」

 次に彼女は、力を失ったように座り込む兄に目を移した。

 蒼太は晃聖以上に悲惨な顔をしている。愕然とし、口もきけないようだ。見開かれた目は、完全に色を失っていた。

 それでも蒼依は容赦なく言い放った。
 「さあ、出ていって!」

 「蒼依」
 晃聖の優しさも、さらに蒼依の惨めさをかきたてるだけだ。

 「出てって!」

 さらに高く激しくなった叫びに、蒼太はようやく我に返ったようだ。兄がゆっくりと立ちあがった。
 「行こう」

 「だけど……」晃聖は渋った。

 「帰ったほうがいい。蒼依は怒ると、手がつけられないんだ」蒼太は虚ろに言い、蒼依に声をかけた。「また来るよ」

 「もう来ないで。私の家族はもういないから」
 二度と兄を許せそうになかった。


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