血の記憶(R18)
□遺恨
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「あんなこと言わなきゃよかった」蒼依の住むアパートから離れると、晃聖はポツリとつぶやいた。
ふたりはどこか話のできる適当な場所を探して、待ち人のいないバス停まで来ていた。
「彼女がホストを異常に嫌っているのを知っていたのに……」
「どうせ、すぐにばれてたよ。蒼依があんなに親父を憎んでいたとは知らなかった。しかも、おふくろが自殺していたなんて……」蒼太の声は辛そうに途切れた。
根が生えたように立ち尽くし、足元に目を据えている。
「彼女と初めて会ったとき、俺はホストだったんだ」晃聖はベンチに座りながら言った。「蒼依は誰に対しても一線引いていたけど、ホストへの嫌悪感はハンパなかった」
何も知らなかったとはいえ、あの頃の自分の振る舞いはあんまりだ。
「俺はつんけんされるのが気に食わなくてね。理由を聞こうとしつこく彼女に構った」
「真崎さん、積極的そうだもんね?」
さすが蒼依の兄だ。皮肉混じりの苦笑が返ってきた。
「その甲斐あって、友だちになれた」ちょっぴり自慢する。
「だけど、過去のことは絶対に話してくれなかった。同僚も彼女のことは何も知らなかったよ。いつも内にこもっていて、謎に包まれてた。何かあるだろうとは思ったけど、まさかあんな……」
ふたりは蒼依の受けた衝撃を思い、沈黙した。並んで座り、道路向かいの閑散としたモータープールをぼんやり眺める。
路線バスがしばし視界をさえぎり、走り去った。
やがて、蒼太がゆっくりと話しだした。
「俺らは幸せな子ども時代を過ごした。だけどある日、親父が姿を消し、幸せは突然終わった。ようやく親父を捜し出したとき、親父はホストをやっていて、女と住んでいた。俺は幻滅し、腹を立てた」蒼太が荒々しくため息を吐き出す。
「ひたすら親父を待つおふくろには言えないし、そのうち顔を見るのも辛くなった。だから逃げ出した」
彼は自己嫌悪の檻に閉じ込められ、罪悪感に締め上げられているようだ。
「そのとき、きみはいくつだったんだ?」
「十八だった」
「その年じゃ仕方ないさ。自分のことで精一杯だったんだよ」
「だけど蒼依は……!おふくろが亡くなったのは蒼依が十七のときだ。それでなくても親の自殺は衝撃なのに、目のあたりにするなんて!」蒼太がギュッと拳を握った。
「その間俺は何も知らず、遊び歩いてた!」
後悔の叫びは、聞くものさえ痛みを感じるほどだ。膝の上で固く握った拳の関節が白く浮き出している。彼はその拳を自分自身に打ちつけたいのだろう。
「昨日、俺たちは八年ぶりに再会したんだ。昔、知ってた妹とずいぶん変わったと思ったけど、変わらない方がおかしいよな?十七歳の女の子が、どうやってあの体験を乗り越えたのか、想像もつかないよ。ひとり逃げ出した俺が恨まれるのも当然だ。蒼依とどう接していいのかわからないよ」
「乗り越えてないよ」
「え!?」
「彼女はまだお母さんの死を乗り越えていない」悪夢にうなされていた彼女を思い出していた。
「だから、そばにいてやるんだ。彼女が何を言っても、嫌われても、絶対にそばを離れちゃいけない」
「そんなんでいいのか?」蒼太は不安気だ。
「それが大事だ。彼女はずっと孤独だった。孤独が染みついている。今度こそ兄の役目を果たすんだ」晃聖には確信があった。
一年前、友だちになったとき、蒼依は彼の隣でうれしそうだった。淋しかった証拠だ。
蒼太はまだ考え込んでいる。
「お母さんがなくなったのは、きみのせいじゃない。きみたちはふたりきりの兄妹だ。必ず元に戻れるよ」
それは晃聖の願望でもあった。一年前の続きをもう一度始めたい。
蒼太が不思議そうに晃聖を見やった。
「蒼依とは、ほんとにただの友だち?」
晃聖は自嘲した。
「ああ。俺はそれ以上になりたいんだけどね。彼女は友だちでいるのもいやみたいだ」
「今も人を拒絶してる、ってことだね?」
そんな生易しいものじゃない。嫌われているのだ。彼と同様、許しを乞わなければならない立場なのだ。
「やっぱり彼女が心配だから、戻るよ。きみはどうする?」
蒼太は広げた自分の手をぼんやり眺めている。
「俺はとりあえず帰るよ。自分自身が混乱していて、今は蒼依と対決できそうにない」
晃聖はこの気の毒な男を見つめた。
彼はまさに蒼依の男版。美しい男だった。蒼依と同じ暗い顔で、うなだれている。
「きみもショックだっただろう?大丈夫か?」
意外にも、蒼太は力強くうなずいた。
「落ち着いたら、また戻ってくる。今度は逃げない。ところで――」晃聖を見た。
「あんたに妹をまかせて大丈夫なんだろうね?もし妹を泣かせたら、殴りにいくよ」
もう泣かせてしまったよ。だから、埋め合わせして、信頼を取り戻したい。彼女の力になり、できればずっとそばにいたい。
「大丈夫。彼女をひとりにしたくないだけだ」
ふたりは連絡先を交換し、蒼太は向かいのモータープールへ、晃聖は来た道を引き返した。
部屋のドアは彼らが出ていったときのまま、鍵が開いていた。
晃聖は中に滑り込み、彼女を呼んだ。
返事はない。
不安になり、迷わず部屋にあがった。
蒼依はそこにいた。彼女が『出ていけ』と叫んだあの場所に、抜け殻みたいに沈んでいる。あれから、ずっとそうしていたのだろう。
その姿があまりに弱々しくて、胸が痛くなる。
晃聖は彼女の前にかがみ込んだ。
「蒼依?」
生気のなくなった目が彼を見あげ、たちまち苦しみに曇った。
「なんで帰ってきたの?出てってよ」まるで、むずがる子どものようだ。
濡れた頬に触れると、蒼依は首を振り、身体を引こうとした。
しかし、蒼依の感触に飢える手は、あっという間に彼女をかき抱いた。彼女の香りを胸いっぱいに吸い込み、ぬくもりを確かめる。
薄汚れた男の身勝手さを見せつけられ、次々と家族に見棄てられ、最後に残った母親でさえ自殺という形で去っていった。
これでは人との関わりを避けるようになるのも無理もない。心を許さなければ、裏切られても傷つきはしない、というわけだ。
永い間ひとりで恐怖の体験に耐えてきたのだと思うと、たまらなくなる。よくぞ狂わずにいてくれたものだ。
晃聖は苦痛を自分に移すかのように、許しを乞うかのように抱く腕に力を込めた。
「放してよ!帰って、って言ってるでしょ!」
性懲りもなく、新たな壁を築こうとしている。
ようやく本当の彼女を知ったのに、誰が放すものか!
「それで、またひとりで耐えるのか?何もないふりをして、自分をごまかすのか?」
蒼依が小さく固まる。
「いいか?きみが体験したことは、なかったことにはできない。だけど、もうひとりで耐える必要はないんだ。悲しければ泣けばいいし、慰めが欲しければ、甘えればいい。俺はどこにもいかない」
「べつに慰めなんかいらないし……」小さな声がモゴモゴ反論する。
「でも、辛くてたまらないんだろ?それに、どうせ俺はもう全部知ってる」
最後の一言で彼女の力が抜けた。身体が震え、すすり泣きがもれる。やがて抑えがきかなくなり、声をあげて泣いた。
報われなかった愛のために。救えなかった命のために。淋しかった年月を悲しむために。見棄てられた怒りのために。本気で泣いたのは、これが始めてではないだろうか?この涙が立ち直りの一歩だ。
晃聖は、彼女を懐深く抱え込み、強く抱きしめてやった。
やがて声が小さくなり、蒼依が落ち着きを取り戻し始めた。
「腹減ったろ?」さり気なく訊いた。
「また、いつかみたいに作ってやるよ」
まだ彼女から離れるつもりはない。今日はとことん彼女につき合うつもりだ。
「いらない」泣きはらした顔を見られまいと、蒼依がうつむいたまま返事する。
「いいから。つべこべ言わず、顔でも洗っておいで」
蒼依はきまり悪そうに洗面所に逃げ込んでいった。
彼女がなんとかはれた目を冷やしキッチンに戻ると、晃聖は開け放った冷蔵庫の前にあぐらをかいていた。
「きみの冷蔵庫は何も入ってない!」彼があきれて言った。「飾りか?」
きまり悪さに赤くなった。今日はみっともないことばかり、彼に見られている。
「上の棚にパスタがあるけど。私、やりましょうか?」
「いい」きっぱり断られた。
彼はかいがいしく世話を焼き、彼女に何もさせまいとした。蒼依が半分以上残したミートスパにも文句も言わず、片づけを終えた。
「今日はずっといるからな」
「だめ!」蒼依は慌てて言った。
今夜はこれからのことをじっくり考えたいのに、彼女の感情に甚大な影響を及ぼす彼がいては集中できない。
綾に連絡取り、次の行き先の計画を立てたかった。
「心配しなくても、下心はないよ」どうやら彼は、違うことを考えていたようだ。
「当然よ。私たちはそういう関係じゃないんだから」蒼依はいつもの気丈さを取り戻して、はねつけた。
晃聖がムッとするのを無視して続ける。
「私が元気でやっていることもわかったんだし、あなたも自分の生活に戻った方がいいんじゃない?」
晃聖が表情を改めて、蒼依を見た。
「俺は罪悪感だけできみを捜していたわけじゃない。俺はきみとつき合ったときから、きみしかいないし、忘れたこともない。念願のきみにやっと再会できたのに、こんなんで帰るわけがないだろ?今度は一から恋人候補としてくどくつもりだから、覚悟してくれよ」
いきなりの熱いラブコールに、蒼依はうろたえた。どう返事をしていいのかわからず、うつむく。胸の奥でせわしなく鼓動が鳴っている。
理性は何としてでも『彼を追い返せ』と警告しているが、母と同じ情熱を持つ女は、『彼を信じろ』とそそのかす。その誘惑は強力でしつこかった。
「俺は帰らないからな」晃聖が頑固に言いつのる。
蒼依は深いため息をついた。
「どうせ、だめだと言ってもいるんでしょ?相変わらずのしつこさね」諦めたように言った。
だが、彼女は選んだのだ。彼のそばにいることを。いつの間にか、行方をくらます計画は遠く追いやられていた。