血の記憶(R18)
□望月蒼一郎
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望月家の屋敷は門からうねうねと続く邸内路の奥にあった。古めかしいたたずまいは、外界を遮断するような重々しさがある。人の顔で言うなら、祖父そのもの。
蒼依は野島に案内され、優雅な応接間にいた。壁には絵画雑誌でしかお目にかかれないような絵が掛けられ、部屋の一角には見事な花瓶に絶妙なバランスで花々が生けられている。家政婦が出してくれたお茶が、静かな部屋に深い香りを添えていた。
その部屋にひとりTシャツにジーンズ姿の自分は、完全に浮いているだろう。
不意に扉が開き、杖をついた老人が入ってきた。
蒼依は立ち上がった。
真っ白い髪に、白いひげ。色合いは違うが、それはまさしく望月蒼一郎だった。身体は痩せ衰えても、眼光の鋭さは写真となんら変わっていない。
遠慮のない視線に上から下まで値踏みされ、ますます居心地が悪くなってきた。心細さに野島を振り返った。ロボットのような彼でさえ、この年寄りに比べたらまだあたたかみがある。
だが、すでに彼の姿はなかった。
仕方なく覚悟を決め、蒼一郎と目を合わせた。
「初めまして……蒼依です」どちらの姓を使っていいのかわからず、そう名乗った。
「うん……」見下したような尊大な態度。口元のしわが皮肉っぽく歪んでいる。
彼の目に孫を歓迎する温もりはみじんも感じられない。
彼は本当に孫に会いたかったのだろうか?
蒼依は来たことを後悔していた。
「あまり燈子に似ていないな」第一声がこれだ。まるで、責めているように聞こえる。
「どちらかというと、あの男にそっくりだ!」
腹立たしげに、杖で床を強く突いた。
大きな音が響き渡り、蒼依はびくんと跳ねた。
どうやら祖父は、父を嫌っているようだ。当然、母との結婚に反対だったはずだ。
それなのに母は結婚した。望月家に生まれながら極貧生活は、勘当と引き換えに結婚に踏み切った結果だろう。
さすが望月ホテルの会長だ。人を見る目は確かだ。そして今度は、私が父に似ていることが気に食わないらしい。
心細さを押しのけて、苛立ちがムクムクと顔を出した。好きでこの顔に生まれたわけじゃなし。鏡を見るたび、その事実を突きつけられてきた。
蒼依は反抗的に顎をあげた。
「自分の責任でないことで、責められるいわれはありません」」
蒼一郎は一瞬、目を光らせたものの、やがてゆっくりと口元を緩めた。
「それもそうだ。まぁ、座りなさい」
堅苦しい仮面をはぐと、祖父はぐっと親しみやすくなった。
蒼依も少しばかり緊張を解き、再びソファに腰を下ろした。
祖父は大きなひとり掛けのソファにデンと腰を据え、とっくりと蒼依を見つめた。
「そうやってものおじせず顎をあげるところは、燈子にそっくりだ」しみじみと言い、声をあげずに笑った。
その様子から、彼が娘を愛していたことがわかる。
その娘が亡くなったことを、祖父は知っているのだろうか?対面早々、母の悲劇を告げるのはためらわれる。
「私はもう何年も前から、おまえの行方を捜していたのだよ」蒼一郎はこれまでと打って変わって、穏やかに言った。「こうして会えるのを心待ちにしていた」
そう言われると、ようやく祖父に会えた喜びが湧いてくる。誰かに必要とされるのは、とてつもない幸せだ。
「私も会えてうれしいです」
蒼一郎がうなずく。
「近頃、体の具合が良くなくてね。このまま会えないんじゃないかと焦っていたところだ」意外にも弱音を吐いた。
喜びはたちまち心配に変わった。
「どこかお悪いんですか?」
「ここだよ」祖父が胸を指でつつく。
「心臓がちょっとね。二年前、発作を起こしてからだ」
彼が身を乗り出してきた。
「そこで、おまえに頼みたいことがある。今、住んでいる部屋を引き払って、ここに住んでもらえないだろうか?」
思わぬ頼み事に、固まった。
どんなにいい屋敷に住んでいたって、ひとりきりは淋しいのだろう。これくらい広いと使用人はいるだろうが、それは家族とは違う。ひとりぼっちの淋しさなら、蒼依はいやというほど知っていた。
だが引越しとなると、そう簡単にはいかない。
「それはちょっと……。でも、ときどき会いにきますから」
それくらいで祖父は満足しなかった。
「私はもう長くはないだろう。もちろん私が死んだら、遺産はすべておまえのものだ」
「そんなこと、おっしゃらないで!」
全身がその結末を拒絶した。想像するだにおぞましい。二度と人の死を見たくなかった。
蒼一郎がうれしそうに目尻を下げた。
「おまえは優しいな」孫をあたたかく見つめる。「それなら、どうか孤独な年寄りの願いを叶えてくれないか?」
強い祖父の、弱気な言葉に心が動かされた。
祖父の希望を叶えてあげたい。あげたいが――。
「ごめんなさい。そうしたいけど、私にも仕事があります。ここから毎朝通うのは無理です」
「あんな仕事!」いきなり蒼一郎が口をへの字に曲げた。「あんなくだらない仕事は辞めて、私の仕事を手伝いなさい」
誘い出された同情は、早々に撤収した。
祖父にとってはくだらないかもしれないが、蒼依にとっては――いや、あの会社にいる誰もが真剣に取り組んでいる仕事だ。そんなことまで知っているということは、お金にものをいわせ身辺調査でもさせたのだろう。顔には出せないが、不快感でいっぱいになる。
そうとも知らず、傲慢な年寄りはさらなる注文をつけた。
「ただし、ここへ来たら今おまえがつき合っている男とはきっぱり手を切ってもらいたい。あの真崎晃聖という男、おまえにはふさわしくない!」
衝撃に大きく心臓が跳ねた。今まさに晃聖から完璧に逃げられるチャンスを与えられた。祖父の財力を持ってすれば周りをボディーガードで固め、彼が近寄る隙もないだろう。
だけど、本当にそうしたいの?もう二度と話すことも、会うこともなくなる。本当にそれでいいの?
心が揺れた。晃聖に慰められた夜がありありと蘇ってくる。食事を作り、兄との仲を取り持とうとしていた。彼女に恨まれようが、微動だにしなかった。それもこれも、彼女を思ってのことだ。
「引っ越しはしません」ありたっけの勇気を振り絞って、断った。
沈黙が落ちる。
蒼一郎は険悪に目を光らせたものの、力なくしおれた。
「私は淋しいのだよ」しょげ返って、、老人がポツリとこぼした。
引越しを断っただけなのに、悪いことをしたような気になってくる。
「おじいさま」なんとかなだめようと、声をかけた。
その甲斐あって、ちょっぴりほころんだ。
「やっと、おじいさまと呼んでくれたね」
その笑顔を維持したくて、話を続ける。
「お休みになったら、また会いに来ます。そうだ!メールはいかがです?毎日メール交換しましょうよ。それに、私に兄がいることはご存じ?」
とたんに祖父の雰囲気が変わった。
「蒼太にはだいぶ前に会った」険しい顔で、さっきまでの弱々しさが嘘のようだ。くるくると変わる祖父のご機嫌についていけない。
「あの男は、馬鹿な父親と同じ仕事ばかりか、その精神まで受け継いでいる。卑しいホストなどに成り下がりおって、あいつを孫とは思ってない!」
同感だ。兄があの仕事を選んだことを軽蔑している。
それなのに違和感があった。そこまで憎めない。どうやらこの一カ月余りの間に、許しが生まれていたらしい。
蒼一郎のかんしゃくは一向にとどまることを知らず、まだ罵り続けている。まるで、一ヶ月前の自分を見ているかのようだ。
「あんな男に毒されおって!あいつがどんな男か、蒼太はわかってない!藤島は財産目当てで燈子に近づいたんだ。私の大切な娘を苦しめ、死に追いやった。あいつが殺したも同然だ」
蒼一郎の目に、初めて苦しみが交じった。それだけ娘を愛していた証拠だ。
「あの男が死んでくれて、私はせいせいしている。病死だったと聞いたが、せいぜい苦しんだことを祈っているよ」
あまりの残酷な言葉に、愕然とした。祖父の口から、こんな形で父の死を知らされるとは思わなかった。
憎むべき相手はもういない。憎しみをこめて放った矢は、あらぬ方向へ飛んでゆき、兄を傷つけただけだった。本当に文句を言ってやりたい相手は消え失せ、残ったのは虚しさだけだ。
「いいか、蒼依――」言葉が途切れ、出しぬけに蒼一郎が胸を押さえた。見る見る顔色が悪くなり、苦悶の表情だ。
蒼依は慌てた。彼の隣にしゃがみこみ、痩せた体におろおろと手を回す。どうしていいのか、わからない。
「ポケットに薬が……」苦しげな息の下から声をしぼり、内ポケットを探ろうとしている。
迷わず蒼依はポケットに手を入れた。今にも祖父が死んでしましそうで、手が震える。がむしゃらにホイルを破り、薬を口元に運んだ。
薬を舌の下に薬を含むと、彼は徐々に落ち着きを取り戻していった。血の気は戻りつつあるが、まだぐったりしている。
蒼依も祖父と同じくらい真っ青だった。あらためて知った死の予感に、震えが止まらない。未だ冷や汗が流れ、動悸は激しくなる一方だ。
「あんな連中とつき合うんじゃない」なんと、蒼一郎の怒りはまだ続いていた。
この気難しい老人は、ダイナマイトの心臓を抱え、怒りの火種をもてあましている。
「真崎という男も同じだ。ろくな奴じゃない」
反論したかったが、祖父のもろい心臓への負担を考えると、とても口にはできない。それに今は、議論している場合じゃなかった。
「その話はまた今度にして、とにかく休みましょう。誰か呼んできますね」
祖父が彼女のTシャツを掴んですがりついてくる。
「私には、おまえしかいないのだよ」
「今はおじいさまの身体のことを一番に考えましょう」きっぱりとたしなめた。
「それに私も突然のことで、まだ混乱しています。よく考えて、またおじいさまに会いにきますから」
また発作が起きるのではないかと、気が気じゃない。
「わかった」蒼一郎は力を使い果たし、降参した。
「あんな男とはきっぱり別れて、帰っておいで」
それでも最後に念押しするのを忘れなかった。まるで、母に向けられた言葉のようだった。