イブの夜は更けて(R18)

□別離の痕
7ページ/7ページ



    19


 「社長?今日も残業ですか?」会社を出る間際、捺希は燿子に話しかけた。

 喪が明けて以来、社長は朝1番に出勤し、営業時間が終わってからも働いている。それこそこれまで仕事に集中できなかった分を取り戻すかのようだ。
 だが実際は、淋しさを仕事で穴埋めしているだけだと社の誰もが気づいていた。気丈に笑顔を浮かべているが、見せかけにすぎない。それがもう2ヶ月も続いているのだ。

 捺希は社長が心配でたまらなかった。

 「うん……、あとちょっと。捺っちゃん、お疲れ」燿子がモニターに目を据えたまま答える。

 残っているのは捺希と燿子、真鍋だけだ。

 捺希は困り果てて、専務と目を見交わした。

 真鍋がうなずく。
 「それはいつでもできるんだから、今日はもう帰ろう」低くて優しい、くるみ込むような声だ。
 その話し方からも彼が社長を心配しているのがわかる。

 「今日できるのに、明日に廻すっていうのはどうかと思うけど?」燿子が意固地になって言い返す。

 専務が捺希に目配せしてきた。今や社長を守るのはふたりの使命だ。

 「よし」
 真鍋が燿子の隣りに椅子を引き寄せて座った。「じゃあ、待ってるから、終わったら3人で飯食いに行こう。明日は休みだし、飲むのもいいな?」

 「えっ!?」燿子が面食らって、交互にふたりを見た。

 内心捺希も驚いたが、喜んで彼の計画に乗ることにした。
 「真鍋専務に食事に誘われるなんて、光栄です」
 専務にならって椅子を引き出し、待ちの姿勢に入った。

 社長がどぎまぎしている。初めて見る姿だった。

 「さあ、続けて」真鍋が燿子を急かした。
 その一方で捺希とどこに何を食べに行こうか議論を続ける。

 辻丸不動産で6年働いているが、専務がこんなに話しやすい人だとは思わなかった。もしかしたら、普段はけじめをつけるために一線引いているのかもしれない。

 その横で燿子がイライラを募らせている。このところ常時貼り付けていた見せかけの仮面に、ひびが入りつつあるのがキーボードを叩く音でわかった。

 「ちょっと!」いきなり燿子が弾けた。

 「何でしょう?社長?」捺希は澄まして訊いた。久しぶりに彼女らしい声が聞けてうれしかった。

 「人が一生懸命働いてるっていうのに、気が散るじゃないの!」

 「そうか……」真鍋が重々しく言って立ち上がった。「じゃあ、先に行って待ってるよ」

 たちまち捺希は不安になった。社長を残して行きたくない。

 「わかったわよ!」
 燿子がウィンドウを閉じ、立ち上がった。パソコンがプログラムを終了する間、荒々しくバッグを取り出し帰り支度を始める。

 それを見ながら真鍋がにんまりしていた。全てはお見通しだったのだろう。彼はあやすように燿子話しかけ、店の外に連れ出した。凍える寒さの中、燿子を挟んで身を寄せ合って駐車場に急ぐ。

 社長はまだブーたれていたが、格段に気分がよくなっているのは見え見えだった。

 駐車場でも真鍋は、自分の車で行くという燿子を丸め込み、シーマに乗せてしまった。
 大した手際だ。それは彼が、辻丸燿子という人を知りぬいている証拠だった。

 食事は楽しかった。会社が管理するアパートの風変わりな家主の話をし、苦情を言ってきた住人の呆れた理由に笑った。

 その間に真鍋が――燿子の好きな――熱燗を頼み、酒が進んだ。

 社長はほろ酔いかげんで笑っている。

 捺希も付き合いで少しは飲んだが、専務は一切飲まなかった。最後まで社長のナイトを勤めるつもりなのだろう。

 「帰りたくないな」
 夜も更け帰ろうという段になって、燿子がポツリと弱音を吐いた。

 あの広い家にひとりでいるのが淋しいのだろう。だからこそ朝1番に出社し、遅くまで残業するのだ。

 捺希は身につまされ、どうしたものかと専務を見た。

 「帰ったって、誰かが待ってるわけでもなし……」真鍋がつぶやく。「酒買って、家飲みしようか?」次いで燿子にそう訊いた。

 「誰んちで?」燿子がすかさず訊き返す。

 「そりゃあ、燿子ちゃんちに決まってるだろ?それでも帰りたくない?」

 専務が社長を“燿子ちゃん”と呼んだことに捺希は目をむいたが、当の本人は何とも思っていないようだ。

 その証拠に燿子は、「帰りたくなった」と目を輝かせた。

 3人はコンビニで酒とつまみを調達した。
 何でも社長はコンビニが初めてだということで、カゴ一杯に買い物をして浮かれていたが、本当はひとりでないことがうれしかったのだと思う。家に着いてからも上機嫌で、ハイペースで飲んでいた。
 それから30分もしないうちにうたた寝を始めた。最近、無理をしていた仕事の疲れもあるのだろう。

 「ようやくですね」捺希は笑いを噛み殺して、そっと言った。

 「遅くまで付き合ってくれて、ありがとう」真鍋からヒソヒソ声が返ってきた。
 時刻は午前1時を回っている。

 「いいえ。久しぶりに楽しそうな社長が見れて、うれしかったです」

 真鍋が満足そうにうなずいた。気持ちは同じだった。

 「社長を寝かさないと。私、布団取って来ますね」
以前、この家で寝泊まりしていたので、社長の寝室の場所はわかっている。

 「手伝うよ」

 ふたりして寝具を運び、襖を隔てた隣りの部屋に敷いた。
 捺希が社長の上着を脱がせ、真鍋が燿子をそっと抱いて布団に入れる。
 その間に捺希はささやかな宴のあとを片付けた。

 洗い物を済ませ和室に戻ると、真鍋が隣りの部屋との境に立っていた。燿子の眠る部屋の入り口に立ち、視線を注いでいる。

 そのひたむきな横顔を見ているうちに、ドキドキしてきた。
 直感がこれは愛だと叫んでいる。永い時間をかけて育まれた深く揺るぎない愛情。
 感情を見せない男性なのでいつからなのかはわからないが、その一途な横顔に永い年月を感じた。

 真鍋が彼女に気づいた。
 さすが大人だ。見られていたとわかっているはずなのに、照れも慌てもしなかった。境の襖を閉め、「送っていくよ」と言った。

 専務に合わせて、冷静を装った。
 「いえ、タクシーを呼びますから」内心はまだどぎまぎしている。

 「燿子ちゃんを助けてくれたのに、そういうわけにはいかないよ」愛情を隠そうともしていない。
 「そのために一滴も飲まなかったんだから」

 そこまで言われたら、断れなかった。

 専務は社長の鍵で錠を掛け、ポストに鍵を返した。
 それでふたりの仲が片思い止まりなのがわかる。

 専務の隣りに乗り込み、果たしてそうだろうかと疑問が湧いた。
 葬儀の日、専務の肩で泣いていた社長を思い出す。あんなに意志の強い彼女がすがりついて泣くなんて、何らかの感情を抱いている証しではないのか?今日の社長の言動は、彼に甘えていたのではないか?
 考えれば考えるほどふたりは両思いのような気がした。

 そっと専務を窺った。
 彫りの深い横顔が真っ直ぐ前を見つめている。
 とてもじゃないが捺希には手の届かない落ち着きと大人の魅力を放っている。彼から見たら、私はほんの子どもだろう。

 寡黙だが、優しい人だった。ただの従業員の捺希でさえ、その優しさに何度か助けられてきた。
 敬愛する社長と、この魅力的な専務がカップルになったらどんなに素敵だろう。彼なら、社長の細い肩にのしかかる負担と孤独を癒やしてくれるはずだ。しかも、溢れるほどの愛情を抱いている。

 「燿子社長と結婚したらいいのに」
 その夜の専務の気安さにつられ、思わず浮かんだ考えがこぼれ出た。酔いの勢いもあったかもしれない。

 「何だって?」
 真鍋が一瞬車道から目を離し、彼女に目をやった。

 その視線にハッと我に返り、赤くなる。だがあとの祭りだ。
 「いえ……、社長と専務が結婚したら、素敵だろうなぁ……と思って……」尻すぼみに言い直した。

 「そんなに簡単じゃないさ」

 頭から拒絶されなかったので、ますます確信を持った。
 簡単じゃない、とはどういうことだろう?お互い独身だし子どもも手が離れている。社長にその気がないという意味だろうか?

 「社長があんな風に甘えるのは、専務にだけです」専務に希望を持ってほしくて、言ってみた。

 返事はないままシーマは夜の街を走っていく。深夜ということもあり、すれ違う車さえほとんどない。

 この話はこのまま無視されるのだと思った頃、真鍋がようやく口を開いた。
 「専務の俺が、社長にプロポーズなんかしたら誰だって裏があるって思うだろ?燿子ちゃんだって警戒して、傍にも置きたくなくなるさ。だから、このままが1番いいんだよ」淡々とした返事が返ってきた。
 今の状態に甘んじているようだ。

 危険を冒すより、このままずっと見守っていく覚悟なのだろう。現にもう何年もそうしてきたのだと思う。それもある意味凄い。深く静かなる愛だ。
 そこまで決意を固めた専務に、今さら何を言ってもどうなるものでもなかった。

 「余計なこと言って、すみません」とりあえず謝った。

 真鍋が笑顔を向けた。彼がプライベートだけで見せる貴重な微笑みだ。
 「捺っちゃんが俺たちのことをそんな風に思ってくれて、うれしいよ。ありがとう。もし良ければ、これからも今日みたいに燿子ちゃんに付き合ってもらえると助かるんだが?」

 「喜んで」笑顔を返した。
 社長のためなら頼まれなくてもやっている。

 ふたりは結束を固め、アパートの前で別れた。

 部屋に落ち着くと、ひとり眠る社長を思った。
 いつもと違う部屋で、何があったのかと思いながら目覚める彼女を……。みんなが帰り、ひとり残されたのだと気づく瞬間を……。祭りのあとのような、あの淋しさを……。

 なんだかたまらなくなり、携帯電話を手にした。

 『夕べはありがとうございました。とても楽しかったです。来週は3人でお鍋しませんか?もう長い間食べていないので、ご一緒できたらうれしいです』

 メールを送った。次のお祭りがあるとわかれば、目覚めも少しは違うかもしれない。

 燿子の役に立てることがうれしかった。
 捺希はようやく気がかりを脇に置き、寝る準備を始めた。


次の章へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ