イブの夜は更けて(R18)

□片思い
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 真夏に庭仕事をするものじゃない。五十嵐のおかげでやぶ蚊の餌食にはならずに済んでいるが、暑さはうだるようだ。日陰には入っているものの、家と隣家にはばまれ風がない。炎天下で作業する五十嵐はもっときついだろう。

 捺希は痛む腰を伸ばして、苦労した成果を眺めた。通ってきた通路は黒い地面に変わり、残りもあとひと息だ。

 五十嵐の様子を見に行った燿子が、雑草を入れるゴミ袋を持って家の陰から現れた。
 「そろそろお昼だから、休憩しよ」

 今日の社長は大忙しだった。草取りをしつつ休息時間に気を配り、やってきた畳屋にまで指示を出していた。さすが社長だ。

 捺希は手を洗い、今朝、燿子と作った弁当を持って縁側に回った。
 ささやかな縁側だが、箱庭みたいな庭もついていて、何より風通しがよかった。
 そこに便利屋が向こう向きに立っていた。

 思わず、唾を呑んだ。
 TシャツにV字に汗じみが広がり、背中に貼り付いている。シャツ越しに筋肉が盛り上がり、剥き出しの部分は日焼けで真っ黒だ。

 いきなりハグされたあの瞬間がフラッシュバックした。
 彼の身体は捺希を覆い尽くすくらい大きくて、いくら暴れてもびくともしなかった。

 五十嵐はタオルで腕や首を拭い、貼り付いたTシャツを背中から剥がしたかと思うと振り返った。

 捺希は慌てて目をそらした。
 「お弁当、持ってきました」言う必要もないのに、説明した。「ほとんど社長が作ったんですよ」
 なんだかきまりが悪くて、彼を見れない。

 「気持ち悪いとか、だるいとか、ない?」五十嵐が訊きながらクーラーボックスを指した。
 飲めということだ。各自それぞれ相手の分まで持ってきたので、補給する水分は山とある。

 捺希はチラッと彼を見て、クーラーボックスに目をやった。
 前も後ろと変わらないくらい汗じみが広がり、目のやり場に困る。

 「社長に厳しく水分と塩分の補給をするように言われてますから、大丈夫です」

 低くて深い笑い声が、心地よく広がった。
 「俺のとこにも、やかましいぐらい言ってきたよ」笑いながら捺希の方に近づいてくる。

 「水道、使えますから、先に手を洗ってきたらいかがですか?」近づかれるのが不安で、早口で言った。どぎまぎして直視することもできない。

 五十嵐が立ち止まった。何の返答もない。
 生ぬるい風がふたりの間を抜けていった。

 捺希はおずおずと彼の様子を窺った。

 五十嵐は考え込むように彼女を見ている。

 捺希は思わず目をそらしたが、勇気を振り絞って目を合わせた。
 「どうかしましたか?」冷静を装って訊いた。

 五十嵐は自分の姿を見下ろし、人差し指でこめかみをかいた。
 「お言葉に甘えて、洗ってきた方がよさそうだ」捺希の横を大股に通り過ぎていった。

 そのときになって、彼が勘違いしたのではないかと心配が湧いた。見方を変えれば、彼が不潔だから尻ごみしているように見える。
 内心焦ったが、どうしようもなかった。間違いを正したいが、“実はあなたの身体に見とれまして”なんて口が裂けても言えない。考えただけで頬に血が上ってきた。

 「顔が赤いわよ」鋭い声が飛んできた。「ほんとは具合が悪いのに、無理してるんじゃないでしょうね?」
 燿子が問答無用で捺希を日陰に連れ込み、座らせた。

 「いえ、そうじゃなくて……」

 燿子は聞く耳を持たなかった。スポーツドリンクをわざわざ開けて渡し、捺希を扇ぎ始めた。

 恐縮した。
「本当に違うんです」

 「熱中症は自分でも気づかないうちに進行するのよ。飲んで」いつものごとく命令した。

 「具合が悪いんですか?」五十嵐が戻ってきた。
 彼は頭にも水を浴びたようだ。髪が頭に貼りつき、しぶきは肩にも飛んでいる。まるでシースルーだ。

 「今――」燿子の声が途切れた。
 便利屋を凝視し、捺希と見比べた。
 「ねえ、よろず屋さん」燿子が五十嵐に話しかける。「着替えのシャツはないの?うちの捺っちゃんが、目のやり場に困ってるじゃない」
 さすが社長。瞬時に見抜かれた。

 五十嵐が慌てて胸に貼りついたシャツを剥がした。
 「すみません。これしかなくて」燿子に謝っていたが、視線は捺希に向いている。

 誤解はいっぺんに解けたが、ばつが悪くてさらに顔の火照りが広がった。
 「べ、別に困っているわけじゃ……」いや、困っている。
 「と、とにかく、お昼にしましょうよ」自分を含め、全員の意識を他のことに向けさせたかった。

 ありがたいことに、誰も反対することなく食事は始まった。

 その間社長が五十嵐に質問を浴びせていた。会社の場所や仕事の内容、結婚の有無まで。まるで尋問だ。

 それに腹を立てることなく相手をしているのだから、五十嵐も大したものだ。
 それに優しいのもわかっている。なにしろ自分がやぶ蚊の犠牲になる覚悟で、燻煙剤を譲ろうとしたのだ。

 その間にも彼のTシャツは乾きつつあった。
 だが捺希の動揺は未だ収まらず、食べ物の味もわからない始末だ。
 午後の作業が始まったときにはホッとした。

 「ねえ、捺っちゃん」燿子が作業の手を止めることなく話しかけてきた。「携帯電話の男に、また偶然巡り逢えるなんて不思議じゃない?」

 安心するのは時期早々だった。捺希が男性を意識するのを見て、彼女が放っとくはずがない。

 「偶然と言っても、たまたまポストに入っていた格安チラシに引かれただけです。あの値段なら、この街の半分の人は〈よろず屋〉に頼みますよ」

 社長が世話好きの顔を出して、おかしなことを考えないように芽を摘んでおく。
 人のことより、社長は自分のことを考えた方がいい。その証拠に社長と専務は両思いなのに、もう何年も無駄にしている。

 「それよりも、何十年も助け合っている社長と専務の方がずっとすごいですよ」

 燿子はあっけらかんと笑った。
 「そんなんじゃないの。真鍋さんは義理堅いだけ。それだけのことよ」昨日の昔話を笑い飛ばそうとしている。

 「そうでしょうか?」
 いつか話そうと思っていたことだった。大きなお世話だと思うが、いくら待っても専務の気が変わる気配がないので、社長とふたりきりで話せるチャンスを狙っていた。

 「何が?」笑いを漂わせ、捺希に顔を向けた。

 「専務は、社長にプロポーズするのが怖いんです」

 燿子が笑顔のまま固まった。手には抜きかけの雑草を掴んでいる。

 「プロポーズしたら、社長に不信感を持たれると思っているんです」

 「そんなわけないじゃない」
 燿子が動きを取り戻した。捺希から目をそらし、猛然と草をむしり始める。

 「嘘じゃありません。専務から直接聞きましたから。専務は社長に疑われたら警戒されて、傍にもいられなくなるとずっと思ってきたんです」

 再び燿子の動きが止まった。
 「何、言ってるの」動揺しているようだ。「だいたい、何で捺っちゃんがそんなこと知ってるわけ?」

 「ずっと前、飲み会のとき、『社長と結婚したらいいのに』って言ったら、専務にそう言われました」訊かれたので正直に答えた。

 ふたりを結びつけたくて話したが、社長の動揺が思った以上に大きくて不安になってくる。

 それきり返事がなかった。怒ってしまったのかと思うくらい黙々と草取りに専念している。

 気まずい成り行きに、軽率な発言を悔やんだ。

 それから間もなくふたりは仕事を終えた。人の手が入った庭は見栄えがいいものだ。

 「やっぱり捺っちゃんの勘違いよ」社長が唐突に言った。あれからずっと考えていたようだ。「それなら私が告白したとき、どうして断ったわけ?」

 その通りだ。
 「わかりません。そのことは何もおっしゃいませんでした」

 燿子が唇を引き結んで雑草を袋に詰め始めた。
 「よし!」袋の口を縛って、燿子が言った。「このままじゃ気持ち悪いから、決着つけてくる」

 「え!?」あっけに取られ、社長を見上げた。

 燿子は決意に満ちた顔で未来を見ていた。
 「私は先に帰るけど、あとは大丈夫?」

 「もちろんです。今日はありがとうございました」
 社長のおかげでどれだけ仕事がはかどったことか。深々と頭を下げた。
 これから彼女のしようとしていることがわかっていた。いきなり乗り込まれる専務はかわいそうだが、ここを抜けなければ先はない。うまくいくことを祈るばかりだ。

 捺希は全ての雑草を袋に詰めると、覚悟を決め便利屋の手伝いに行った。
 本来は自分の仕事なのだから、気まずいからといって避けるわけにはいかない。

 五十嵐は垣根の向こうで脚立を使っていた。キャップをかぶり、仕事に没頭している。
 向こう向きだったらもっと良かったのに、捺希に気づいて笑みを浮かべた。白い歯が輝くようだ。

 「草取りが終わったので、手伝います」彼の肩に話しかけた。

 五十嵐のシャツはまた湿っている。ありがたいことに仕事はほとんど終わりかけだった。

 「ありがとう。社長さんは慌てて帰ったようだけど、何かあった?」機嫌よさそうに訊いてくる。

 「社長は忙しい人ですから」
 五十嵐に社長の秘密を明かすつもりはないので、ひたすら散らかった庭を片づけた。そうしていれば彼を見なくて済む。

 五十嵐が生け垣の向こうで脚立を片づけ、落ち葉の掃除を始めた。時間は16時を過ぎたところだが、今日は十分働いたのでこれで終わりにするつもりだった。暑さと長時間の慣れない姿勢でクタクタだ。

 「今日はお疲れさまでした」五十嵐が最後のゴミ袋を荷台に積むと、捺希は労いの言葉をかけた。
 五十嵐を意識していると思われないよう彼の目だけを見て、冷静な態度を保とうと努力する。

 「飯食いに行きませんか?」
 この暑さの中で長時間の仕事をこなしたのに、五十嵐は元気いっぱいだ。楽しそうに笑みまで浮かべている。

 あれだけいい身体をしていると――おっと、危ない。せっかく彼の身体から気をそらそうとしているのに、自分でぶち壊しにするところだった。

 「いえ、今日はもうクタクタで」やんわりと断りを入れた。
 五十嵐を意識しないようにするのも、ひと苦労だ。

 「でも、飯は食うでしょう?」それぐらいで彼はめげなかった。「ひとりで食うよりふたりの方が楽しいし、何より帰ってから作らなくて――」何か思いついたらしく、言葉が途切れた。
 「俺、一旦帰って、着替えてくるから、それならいいでしょう?」

 捺希の努力は無駄になった。一気に頬に血が上り、五十嵐を意識していることがばればれだ。何より、彼に気づかれていることが気まずい。

 五十嵐が目をきらめかせて、吹き出しそうな顔をしている。

 「何がおかしいんですか?」捺希は噛みついた。

 「え!いや……」五十嵐が真面目な顔を取り繕い、なおも食事に誘ってくる。「おいしい店があるんですよ。送っていくから一旦帰って、1時間ぐらいしたら迎えに行きますよ」

 行きたくなかった。疲れているし、傍にいればさらに疲れるとわかっている。しかも彼は面白がっていた。

 こんな風に男性を意識したことがなかった。
 最初は怖かった。それが打って変わって安心できたり、見とれたり。そんなはずがないのに、彼がわざと肉体美を見せつけているような気がしていらつく。心が定まらず、どう対応していいのかわからなかった。
 氏島のときにはもっと全てが単純だった。好意を持ち、愛情に変わり、そして泣いた。今は軽蔑しか感じない。

 「でも……」捺希はしぶった。

 「いいから乗って」五十嵐がピックアップのドアを開けて、彼女を急かす。
 「今後の作業予定も確認したいし、やり方によっては予定より早く作業を終わらせられるかもしれない」

 それを言われると弱かった。作業の進捗状況は今1番の関心事だ。

 「わかりました」ようやく捺希は彼のトラックに乗った。


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