イブの夜は更けて(R18)
□襲撃
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「燿子だけど」真鍋がインターホンに応えると、燿子はそれだけ言った。
本当は闘争心が燃えあがり、いきなりまくし立てたい気分だ。真鍋に心の準備をさせたくなくて、突然の訪問だった。彼の不意をついて、本音を聞き出したかった。
「どうした?とにかく上がって」
エントランスの自動扉が低いうなりを上げて開く。
真鍋は心配そうだ。それもそうだろう。いつも尋ねてくるのは真鍋の方で、燿子が彼の家に行くのはこれが初めてだった。
5階の彼の部屋に行くと、真鍋がドアを開けて待っていた。ポロシャツに綿パンをはき、いつものスーツ姿より若く見える。燿子の頭のてっぺんから足の先まで鋭い視線を浴びせ、異常がないかと確認しているようだ。
長時間労働の汗は流してきたが、その視線がこそばゆい。
「入って」真鍋が下がり、燿子のために道を空けた。
ふたりの息子が自立すると、真鍋は永年住んだ一戸建てを手放し、何かと便利なこのマンションに移り住んだ。
なるほど。男のひとり暮らしにちょうどいい広さと立地だ。
ソファの背に服が数枚放ったらかしになっているが、それほど散らかってはいない。よく効いた冷房とテーブルの飲みかけの缶ビール。テレビが高校野球の試合結果を放映していた。
「座って」真鍋がソワソワとテレビを消し、ビールを片づけた。
燿子が座ると、真鍋が斜向かいに腰を下ろす。
「何があった?」落ち着いた心のこもった訊き方だ。
この声を聞くと、盛っていた闘志が萎えた。それでも言うべきことは言わなきゃ気が済まない。
「私たちの過去と未来について、話しにきたの」
即座に真鍋が緊張した。岩のように座ったまま、顔つきが厳しくなり警戒している。
「どんな?」覚悟を決めたのか、一段と低い声で続きを促した。
「まず最初に訊きたいんだけど、私と真鍋さんの関係ってそんなに頼りないものかな?」
“なんだ、そんなことか”とでも言うように、真鍋の頬が緩んだ。
「いいや。俺は何があっても燿子ちゃんと辻丸不動産に尽くすつもりだ。それは確かだ。約束する」
心が沸き立った。彼にこんなことを言われて平気でいられるはずがない。だけど、“辻丸不動産”が余計だ。
「じゃあ、私って、そんなに信用ならない?」
真鍋が顔をしかめた。
「そんなこと、あるわけないだろう!誰かに何か言われたのか?誰だ、そいつは?俺から話してやる」やおら立ち上がり、憤まんやるかたないといった感じだ。
気持ちはうれしいが、問題はそんなことじゃない。
「いいから座って。まだ話は終わってないの」
真鍋は不承不承、元の位置に戻った。全身から不満がにじみ出ている。
「私を信じてくれるの?」
「当たり前だ」間髪入れず、答えが返ってきた。
「じゃあ、どうして真鍋さんがプロポーズしたら、私があなたに不信感を持つと思うわけ?」
真鍋が凍りついた。
捺希には悪いが、この話を出さずに彼の本音を聞き出すすべがなかった。
真鍋は答えない。
「昔、私が告白したとき、どうして断ったの?」容赦なく問い詰めた。
「あのときは……」真鍋が声を絞り出した。「燿子ちゃんはまだ若くて、俺にのぼせているだけだと思った。それに社長の手前、燿子ちゃんに手を出すわけにはいかなかった」
真鍋の表情から全てを読み取りたくて、目を凝らす。
「私はただのぼせていたわけじゃない。それに、父も母ももういないわよ」
燿子の追求から逃れるように、彼が目をそらした。
ここでもう1度拒絶されたら、相当の痛手を負うとわかっている。それでもやって来た。例え振られても真鍋と仕事を続けていく覚悟だ。だから、そう簡単に逃げてもらっては困る。
「私たちの関係は、昨日今日始まったわけじゃない。私は真鍋さんの誠実さを知ってる」
真鍋が深く息を吸い何か言おうとしたが、言葉は出てこなかった。
断ろうとして、ためらっているの?ここまで言っても返事がないのは、そういうこと?
真鍋は目も合わせてくれない。
緊張で心臓が割れそうだ。燿子は沈黙の重さに耐えきれなくなった。
「これで何か変わるわけじゃないから、会社を辞めるなんて言わないでね」落胆で声がかすれた。
思い込んだら猪突盲進する悪い癖の報いだ。泣き伏してしまわないよう歯を食いしばって立ち上がった。泣くのはここ以外どこででもできる。
いきなり腕を掴まれた。容赦なく引っ張られ、彼の膝に倒れ込む。
「夢みたいだ」真鍋が彼女を膝に乗せてつぶやいた。「ずっと叶わない夢だと思っていた」
真鍋の腕が身体に回り、有り得ないくらいに密着してる。ここまで彼に近づいたのはこれが初めてだった。
たちまち希望が生き返り、瞬いた。
「夢じゃないわよ」生意気に言った。「私は1度告白してるんだから、今度はあなたがしてよね」高まる期待で、胸が震える。
真鍋がにっこり笑った。滅多に見られない、極上の笑みだ。
「もう何十年も前から愛している。これからは俺の妻として、傍にいてくれませんか?」くさい台詞を照れることなく言った。
真鍋の思いは仕種にも表れていた。燿子の顔のひとつひとつを愛で、親指でなぞっている。何より、何十年も彼女を見守り続けたその行動が愛情の深さを物語っていた。
燿子は輝く笑みをたたえ、伸びあがって唇を合わせた。
キスは真鍋とビールの味がした。