イブの夜は更けて(R18)
□写真
2ページ/13ページ
2
「なんか、疲れてるなぁ。風邪でも引いたか?」営業主任の渡辺が、捺希の顔を見るなり訊いた。
主任と言ったって、辻丸不動産は小さな会社で、彼の下には高橋と寺田という営業マンがいるだけだ。あとは事務の捺希と、全てを統括している真鍋専務。もちろん社長もいるが、彼女は昼回ってからでないと出てこない。
社長の辻丸燿子は自宅で母親の介護をしていて、ホームヘルパーの人に任せてから出勤する。いつも時間に追われていて、捺希はそんな社長が心配で、そして尊敬していた。
「ちょっと睡眠不足で」
「さては旦那が寝かせてくれなかったな?」渡辺がにやつきながら訊いてくる。
旦那のせいで眠れなかったのは確かだけど、彼が言っているのは全く違うことだ。
本当にそうだったらどんなに幸せだったか……。
「主任!それセクハラですよ」ちょっと睨んで、言ってやった。
渡辺がガハハと笑う。
言っていることは確かにセクハラだが、彼に悪気がないことはわかっている。渡辺に触られたこともないし、だいたい主任は奥さんにベタ惚れだ。しょっちゅう妻の話をして、社員にうんざりされていた。
「あんまり無理すんなよ」最後にそう言って、捺希をホロリとさせた。
「今日の契約書は俺が作っとくよ」真鍋専務が背後から手を伸ばして、ファイルを催促した。
真鍋専務は51歳。前の社長の代から辻丸不動産で働いている。奥さんとは死に別れ、ふたりの子どもは独立していた。
「大丈夫です!私、やれますから」
こんな恵まれた職場は他にないと思う。だから結婚したときも辞めず、仕事内容を事務だけに絞り就業時間を調整させてもらった。みんな喜んで協力してくれた。
その結婚が危うくなっているなんて、誰にも相談できなかった。
なんとか人に頼らず午前の業務をこなし、冷たい北風の中、行きつけの定食屋に向かった。
下町とはいってもクリスマス飾りは豪勢で、あちらこちらで派手な電飾が人々の気持ちを盛り上げている。
だけど捺希にとっては他人事だった。
去年のクリスマスは早々に予定を立て、ふたりで楽しみにしていたのに、今年は目前になっても何も決まっていない。淋しい限りだ。
日替わり定食を頼み、それについてくる最高においしいお味噌汁にひとときの癒やしを求めた。食べ終わってお茶をすすりながらひと息ついていると、いきなり後ろから肩に何かがぶつかった。
たちまち床に食器が落ち、小さな安らぎとともに砕け散った。
「すみません!」
長身の男性が空のトレイを持って、オロオロと捺希の傍らにしゃがみ込む。
「お怪我はありませんか?」初めてお目にかかるようなきれいな顔が、捺希を見上げて訊いた。
「だ、大丈夫です」
魂まで奪われそうな美形から距離をとろうと、立ち上がった。足元に落ちている食器の破片を拾ったとき、くたびれた箒とちりとりを持った店員が飛んできた。
長身のイケメンは、今度は店員に謝っている。
そのすきに捺希はレジに向かった。顔見知りの女将さんにごちそうさまを言っていたとき、例のイケメンが隣りに並んだ。
「ちょっと、待ってもらえますか?」彼が捺希に頼んだ。
女将さんに謝りながら、代金と割った食器代として1万円を渡そうとしている。
女将さんの熱っぽく緩んだ顔を見れば、すでに許しているのは明らかだ。
「急ぎますので、失礼します」
捺希は断りを入れ先に店を出ようとしたが、肘を掴まれた。
一気に警戒心がマックスになる。
「あの……大丈夫ですから……」虚しく繰り返したが、男性は放してくれなかった。
彼が一緒に定食屋を出てきた。
「お詫びをさせてください」背を丸め、覗き込むように彼女を見てくる。
さぁ、困ったことになった。
「あの……私はなんともありませんし、大丈夫です」
半歩後ろに下がると、なんとか息が楽になった。
「改めてお詫びをされるほどのことではありません。あなたは謝った上、弁償もなさったし、あれで十分だと思いますよ」
彼はまだ何か言いたそうに見つめてくる。訴えるような目に、どぎまぎしそうだ。
「失礼します」
これ以上何か言われても困るので、さっさと見切りをつけきっぱりと目をそらした。
「待ってください」
捺希は半身で振り返った。
「僕は村井真と言います」
強引な彼は、捺希の手を取って名刺を押し付けてきた。
「困ったことがあったらどんなことでも駆けつけますから、いつでも電話ください」
村井は輝くような笑みを残し、去っていった。