イブの夜は更けて(R18)
□別離の痕
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今日の仕事は女子大生の引っ越しだった。アルバイトをひとり連れ、午前中かけて引っ越しを手伝った。彼女には手伝ってくれる友だちがふたりいたが、力仕事を頼める男手と車がなかった。
一馬は2往復して、人間と荷物を運んだ。
引っ越し中、お友だちのひとりからメール交換を誘われたが、意図に気づかないふりをして〈よろず屋〉の名刺を渡してきた。客に手を出すほど飢えていないし、千紘の一件でしばらく女は遠慮したい気分だった。
〈よろず屋〉の前まで来ると、その問題の千紘が立っていた。白っぽいワンピースに軽い上着を羽織っている。
一気に憂鬱になった。
どう言ったらわかってもらえるんだ?
一馬は渋い顔で店舗前の駐車場にピックアップを停めた。
「何の用だ?」冷たい一瞥をくれ、事務所の鍵を開ける。
とたんに男殺しの目をうるませ、唇を噛んだ。
初めて千紘に会う男はあの目に騙される。長い睫毛にうるんだ大きな瞳。かわいい顔立ちの守ってやりたくなるような女だ。
もちろん一馬は彼女を大切にしていた。行きたい所があれば連れて行き、欲しい物があれば記念日に送った。甘やかし、機嫌を取り、愛し合うときはたっぷり時間をかけた。
それなのに千紘は仕事でクリスマスに会えないというだけで裏切った。それで彼女の恋愛に対する姿勢がわかるというものだ。
「こっちは忙しいんだ。帰ってくれ」
千紘にとっては日曜は休みかもしれないが、一馬の仕事に曜日は関係ない。却って日曜祝日の方が忙しかったりする。
千紘が唇を震わせた。大きな瞳からひと粒の涙をこぼし、化粧を汚すことなく頬を転がり落ちた。コントロールしているんじゃないか、と疑いたくなるほど完璧な涙だ。
「話を聞いてほしいの」
その場に立ちつくし、言葉と眼差しで訴えてくる。
一馬は諦めのため息をついた。いつまでも事務所の外に突っ立っているわけにもいかない。
「入れよ」ドアを開け、千紘を招き入れた。
千紘はソワソワと事務所を見回し、くたびれたソファの真ん中にちょこんと座った。しょんぼりとうなだれている。
一馬は彼女の前を通り過ぎ、奥の自分のデスクに腰を下ろした。
「話は何だ?」
さっさと話を終わらせ、帰ってほしかった。
「あなたに謝りたいの」必死の眼差しで、千紘が言った。「私は軽率だった。あんな人といるべきじゃなかった」
ということは、やっぱり男といたわけだ。コロコロと変わる彼女の言い分に軽蔑が募っていく。
「でも、最後まではいってないから」言い訳はまだ続くようだ。「最後まで、っていうのは、その……あの……」
「セックスのことか?」投げやりに助け舟を出す。
千紘が頬を染めて、うなずいた。
「本当はあなたといたかったの」
だから許してくれ、ということか?冗談じゃない。愛しているからといって、何でも許せるわけじゃない。
といっても、当初の頭が吹っ飛びそうな怒りはすでにただの不信感に変わっていた。
千紘が彼の許しを期待顔で待っている。
「淋しくなったら、また誰かを身代わりにしたくなるんじゃないのか?」
千紘はブンブンと頭を振った。
「しない!絶対に2度としない!だから許して」
「無駄だ」
「お願い!」半泣きで訴えてくる。
「俺はもうきみを愛していない」
千紘は目を見開き、ハラハラと涙をこぼした。
一馬は目をそらした。女の涙に弱かった。だからといって、縒りを戻すわけにはいかない。
一馬は立ち上がった。引っ越しで汗ばんだ服が気持ち悪い。
「着替えてくるから、落ち着いたら出て行ってくれ」
事務所を出て、2階の自分の部屋に上がった。千紘が勝手に入ってこないように施錠する。今の彼女ならやりかねないからだ。冷たいかもしれないが、ここで情けをかけたらこれまでの苦労が水の泡になる。
さっとシャワーを浴びて着替えだが、すぐには下りていかなかった。グズグズと――本当は書類仕事を片づけたいのに――時間を引き延ばし、30分は無駄にしてから店に戻った。
努力も虚しく、千紘はまだいた。
だが涙は跡形もなく消え去り、自慢の瞳に星が瞬いている。
「おはようございます」
千紘に奇跡をもたらした原村真澄が、一馬のデスクの向かい席に座っていた。まぶしい笑顔で一馬を見上げる。事務所の空気まで変わったかのようだ。
「おはよう」
真澄に挨拶を返し、彼女に目をやった。
千紘はばつが悪そうにしている。まるで浮気の現場を見つかったかのように。
まだ付き合っていたならそうなるのだろうか?精神的な浮気に。
真澄にかかれば、大抵の女は――捺希は違ったが――クラッとなる。
うりざね顔に澄んだ瞳がはまり、通った鼻筋にこれまた完璧な唇は厚すぎず薄すぎず。かといって女々しいわけではなく、備わった強い意志が彼をりりしく見せていた。俺が女だったら惚れていたところだ。
「自己紹介は済んだか?」真澄に訊いた。
「一応」
真澄は千紘との仲が終わったことを知っている。
「まだ何かあるのか?」今度は千紘に訊いた。「こっちは忙しいんだ。何もないなら、帰ってくれないか?」
千紘はモジモジしている。
真澄が興味深そうにふたりの様子を見ていた。
「帰るなら、途中まで一緒に行きましょうか?僕はこれから出勤するんで」
唖然として真澄を見た。出勤するにはまだ早いはずだ。
真澄は物憂い笑みを千紘に向けている。誘惑の笑みだ。
千紘は頬を染め、困ったように一馬に目をやりうつむいた。
秤にかけているのだとわかった。千紘に幻滅していなければ、腹を立てていたところだ。
「じゃ、じゃあ」千紘がおずおずと立ち上がる。
「また明日」真澄が一馬に言い、ふたりは連れ立って出て行った。
珍しいこともあるものだ。もしかしたら真澄も千紘の男殺しの瞳にやられたのかもしれない。だとしたら美男美女のカップル誕生だ。
喜ばしいことに、これで千紘につきまとわれる心配がなくなった。