イブの夜は更けて(R18)

□再会
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 五十嵐一馬はアルバイトの給料を計算しながら、その実、電話を待っていた。榊原捺希の電話を。

 彼女の名字は自宅を突き止めたあと、郵便受けで知った。住まいは4階建てアパートの3階の端部屋だった。建物は古いが、管理が行き届いている。

 あれから一馬は、仕事でこっち方面に来たときにはアパートの前を通ることにしていた。
 捺希の姿を見ることはできないが、それでも1度だけ彼女が洗濯物を干しているのを見たことがある。そんな日は最高にラッキーな気分で、仕事にも精が出た。

 そのうち洗濯物に男物の下着が混じるかもしれないが、そのときは……、いや、そいつがちゃんとした男だとわかれば、いよいよ俺の役目も終わりだ。

 そんな数分の幸運を期待して、水曜の朝――水曜日は辻丸不動産の定休日だ――アパートのベランダ側の道に軽自動車を乗り入れた。これから行く仕事は年寄りの手伝いで、トラックは必要ない。

 一馬の期待は裏切られた。洗濯物はすでに干されたあとで、きっちり閉まったレースのカーテンが、彼を拒絶しているかのようだ。

 内心がっかりして、一馬はスピードを上げた。未練たらしく迂回して、アパートの玄関前を通って次に行こうとする。

 そこに捺希はいた。Tシャツにジーンズのラフな格好で、箒やバケツをタクシーのトランクに入れようとしている。

 一馬はギリギリまで徐行して、様子を窺った。

 その間に捺希はタクシーに乗り込み、東を目指して走り去った。

 一馬は条件反射のようにあとをつけた。間に車を2台挟んだが、タクシーを見失うようなへまはしない。
 住宅街に入ると、近づきすぎないように気をつけた。何度も尾行を繰り返したので、手慣れたものだ。

 タクシーは1軒の民家の前で捺希を下ろし、走り去った。

 一馬は路肩に軽を停め、遠目に彼女を眺めた。

 捺希はすぐには中に入らず、民家を見上げている。

 一馬も彼女にならって、民家に目をやった。

 この位置からは門の内側は見えないが、屋根の位置から見て、門を入ってすぐのところに玄関があるのがわかる。生け垣がうっそうと生い茂り、門柱を呑み込みそうだ。
 彼女が持ってきた道具から見ても、何をしに来たかは一目瞭然だった。

 捺希が中に入ったので、軽をゆっくり進めて家の前を通り過ぎた。家の中に入ったのか、捺希の姿は見えない。

 一馬はその先まで行って路上駐車し、歩いて民家の前まで戻った。門の前まで来たとき、捺希が門柱と家の間から出てきた。
 一馬は反射的に門柱の陰に戻った。

 気づかれたかもしれない。心臓がやかましくがなり立て、汗がこめかみを伝った。

 捺希が門から顔を出し、通りを見回すことなく数分が過ぎた。その間太陽にあぶられ、汗でTシャツが湿り始める。
 やがて鍵を開ける音がし、捺希が家に入ったのがわかった。

 一馬は大きく息を吐き、額の汗を拭った。今度は慎重に門の中を覗いた。

 玄関の引き戸は開いたままだ。捺希の小さなスニーカーがこちらを向いて並んでいる。

 いつまでも立っていると見つかる可能性が高いので、道路沿いに家の周囲を巡り生け垣の隙間から敷地の様子を窺った。垣間見た感じ、雑草が生え荒れているようだ。

 一馬は車に戻り、タオルで汗を拭いた。ちょっとエンジンを切っただけで、中は蒸し風呂ような暑さだ。ドアを開けたままエンジンをかけ、熱い空気が抜けるの待つ。

 この暑さの中、ひとり掃除をする捺希を思った。
 彼女を手伝ってやりたかった。あの家に引っ越すのか?ひとりでつらくないか?水を飲んだか?いろいろ訊きながら、一緒に作業をしたい。捺希を助けたい。腹の底からそう思う。

 しかし……。
 いつも一馬を苛む罪悪感が、彼を引き留めた。彼女に会うわけにはいかない。

 眉間にたてじわを刻み、考えを巡らせる。
 会わなくても手伝えるんじゃないのか?どこよりも格安で仕事を引き受け、誰かを派遣させる。
 それだ!捺希の役に立てるなら損したって構わない。

 腹が決まると一馬は軽をUターンさせた。
 門の前を通ったとき、彼女が首にタオルをかけ玄関の掃除をするのが見えた。

 待ってろよ。すぐに手伝ってやるからな。

 一馬は午前中の依頼を大急ぎで終わらせ、〈よろず屋〉に戻った。
 パソコンに保存されている〈よろず屋〉の広告画面を呼び出し、価格を変更する。さらに業務内容にも手を加え、1枚だけプリントアウトした。榊原捺希専用ポスティングチラシだ。
 再び全てを元に戻すと、パソコンを終了し〈よろず屋〉を飛び出した。

 それからずっと彼女の電話を待っている。帳簿をつけ、給料計算をし、なんとなく事務所の片付けなんかもして電話の傍を離れられない。
 捺希に会うことは叶わないのだから、せめて彼女の電話は自分が取りたかった。万が一その電話を真澄が取って、価格が違うからと断ったりしたら2度とチャンスはない。

 「どうかしたんですか?」

 ソファで眠っていると思っていた原村真澄にいきなり声をかけられ、内心飛びあがった。

 「どうもしないよ。何でそう思うんだ?」平静を装って訊き返した。

 真澄は耳でも澄ますように頭を傾け、一馬をジッと見た。まるで頭の中を見透かそうとしているみたいだ。

 「なんだか……」言葉を探すかのように間を置く。「ソワソワしているようだから」

 参った。真澄は仕事柄、人の感情を読み取ることに長けている。

 一馬は観念した。
「実は電話を待っている」

 「女?」すかさず真澄が訊いてきた。

 「仕事だ」
 質問に答えていないことに気づいただろうか?
 「こないかもしれないけど……」

 捺希が自分ひとりで家の手入れをすると決めていたら、電話はこないだろう。
 だけど依頼してくるかもしれない。まるで恋人の電話を待ちわびる乙女だ。

 「まあ、今日は暇だしな」言い訳するように言った。

 実際は違った。この時間やっているはずの仕事は昼飯を抜いて終わらせていた。

 真澄は思案顔だったが、何も言わなかった。
 彼は余計なことは一切言わない。もちろん営業トークはする。客に合わせてくだらないことを話し、よくしゃべっているように見える。
 だがそれは仕事用の顔だ。本来の真澄は話を聞いている。自分を隠し、見せないようにしている。

 実際、千紘との仲があれからどうなったか一馬は知らない。ふたりがつき合っているのか、あれきりなのか、彼はひと言も話さないし、一馬も訊かない。真澄と知り合って3年になるが、今ひとつ彼がどういう男かわからなかった。

 「そろそろ行かないと」真澄が立ち上がった。

 17時30分。ホストクラブに出勤する時間だ。
 彼は椅子の背にかけてあったスーツの上着を指先ですくい上げ、肩にかけた。
 「それじゃ、また明日」そう言って出て行った。

 こんな時間だし、捺希からの電話はもうかかってこないかもしれない。
 そう思いながら動かなかった。心の隅に未練たらしく輝く期待が、一馬をそこに足留めしている。
 しばし目を閉じ、幻想を楽しんだ。榊原捺希がやってきて、彼に笑いかける姿を……。

 「すみませーん」
 おずおずとした女性の声に、バッと目を開けた。

 左手にチラシを持ち、小脇にバッグを抱えた榊原捺希が立っていた。

 熱さと冷たさがいっぺんに全身を駆け巡る。驚愕で声も出せず、茫然と動きを見守った。彼女を思うあまり、幻を見ているのかと思った。

 捺希は着替えていた。涼しそうなサマーニットにサブリナパンツをはいている。興味深そうに辺りを見回し、ようやく事務所の奥に石のように座る一馬に気づいた。
 驚きに彼女が目を丸くした。

 色を失い逃げ出すか、もしくは腹を立て怒鳴り散らすか、最悪、泣き崩れるかと覚悟した。

 「あなたは確か……」捺希が記憶を手繰り寄せる。「前に会ったことありますよね?」

 なんと彼女の方からあの仕組まれた出逢いを話題にした。そこには恨みも嘆きもない。ただの純粋な驚きだけだ。

 途方もない安堵に襲われた。
 自分の存在自体がどれほど捺希を苦しめるか自覚してきた。彼女の前には2度と出られないと思い続けてきた。それが一瞬にして吹き払われた。喜びがスパークリングワインみたいに身体の中で弾け、彼を酔わせる。
 一馬は不器用に立ち上がった。まだ声が出ない。喜びと興奮が胸につかえ、喉を塞いでいた。

 「ほら、あなたが携帯を忘れて」捺希は彼が思い出せずにいると思ったらしく、説明を始めた。

 「それで、あなたが届けてくれた」一馬はようやく声を見つけ出して、続きを言った。自分でもおかしくなるくらい声がうわずっている。
 いい年こいた大人が何て様だ。

 一馬は体勢を立て直そうと咳払いをした。
 「あのときはありがとうございました」なんとか声は落ち着きを取り戻せたが、まだ心臓が暴れ回っている。
 一馬はデスクの後ろを出て、捺希に近づいた。

 相変わらず彼女は痩せっぽちだった。
 だが、あのときよりはずっとましだ。小さな顔に大きな目が彼を見上げ、柔らかそうな唇は半開きだ。

 一馬は遠くからは見れなかった細部を目に焼きつけた。あのとき、どうして冴えない女だと思ったのかわからなかった。

 一馬が2メートルの距離まで近づくと、捺希がひるんだように半歩下がった。

 無理もない。初対面でいきなり抱きしめ、死ぬほどびびらせたのだから警戒されて当然だ。

 一馬は彼女を怖がらせまいと立ち止まり、歓迎の笑みを浮かべた。
 「それ、うちのチラシですよね?今度は仕事を持ってきてくれたんですか?」

 捺希は何をしに来たか思い出したかのようにチラシに目を落とした。もう1度彼を見上げ、再び広告を見る。次に顔を上げたとき、もう迷いはなかった。
 「お願いしたいことがありすぎて、直接お伺いしたんです」捺希が困り果てて言った。
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