イブの夜は更けて(R18)

□幸せと破滅の予感
2ページ/10ページ



    33

 錠の開く小さな音に、原村真澄は浅い眠りから目覚めた。

 毎週水曜日は定休日だったが、今日は仕事が立て込み一馬は仕事だった。真澄は一馬と同じくらい受注ノートを見ているので、彼の予定はだいたいわかっている。表にピックアップトラックも軽自動車もあったので、墓掃除から帰ってくるなりシャワーを浴びに部屋に上がったのだろう。そろそろ下りてくる頃だと思っていた。

 真澄は〈よろず屋〉のくたびれたソファに長身を伸ばしたまま、寝たふりを続けた。

 一馬が静かに入ってきた。足音を忍ばせ、真澄の横を通り過ぎる。椅子のきしむ音がして、彼が座ったのがわかった。

 真澄は薄目を開けて一馬を見つめた。

 一馬は長い脚をデスクの横からはみ出させ、書類仕事を片づけていた。大きな手に握られたボールペンが小枝みたいに見える。くっきりとした唇をキリリと結び、濃い眉を寄せ、これぞ男という顔だった。

 今日の一馬は機嫌が良さそうだ。彼のまとう雰囲気でわかる。

 真澄は一馬の顔が好きだった。顔ばかりではない。魂も美しい。
 五十嵐一馬の愛情は深くて一途だ。その恩恵にあやかった女は――彼を裏切りさえしなければ――丸ごと抱き留められ、大切にされる。同じように仕事も大切にしているが、一緒にいられるときは恋人を甘やかし、尽くそうとする。

 あの千紘は馬鹿だ。あれほどの幸運を手に入れていながら粗末にし、一馬に嫌われた。
 あれから千紘は真澄の働くホストクラブにせっせと通い、せっせと金を落とし続けている。2度と一馬の前に現れることはないだろう。

 自分だったら絶対に一馬を裏切らない。いつだって彼の傍にいて、大切にする。
 叶わぬ願いだ。一馬にそっちの趣味がないのはわかっている。それでも待ち続けた。いつか奇跡が起きないとも限らない。傍にいて、一馬の幸せを祈ってきた。

 一馬はもてる。根が真面目でつき合っている女以外に目を向けないので本人は気づいていないが、彼に惹かれる女の半分は真澄が遠ざけてきた。
 一馬の恋人を紹介されたときは、さりげなく色目を使った。彼に相応しい女か試すためだ。反応したときは、一馬に気づかれないよう誘惑した。そうやって何人の女が去っていったことか……。
 そして千紘を最後に女の気配がなくなった。

 一馬に女ができたら、すぐにわかる。機嫌が良くなり、女が欲しがるアクセサリーや流行のレストランを訊いてくるからだ。
 最近、機嫌がいいのは確かだが、その手のことは訊かれていなかった。

 もしかしたら彼は女に懲りたのかもしれない。
 そう思ったら期待に胸がふくらんだ。これまであり得ないと思っていた空想が心を満たす。

 と、邪魔をするみたいに電話が鳴り、夢の風船が割れた。

 一馬がワンコールで受話器を取り、いつもより声を低めて応えている。彼を起こすまいと気を使ってくれているのだ。

 その優しさに胸がキュンとなる。そろそろ一馬の手をわずらわせるのを止めて、起きるべきだ。
 それに話しかけてほしかった。寝ていたら話しかけてもらえない。

 真澄は身じろぎして顔をこすり、自然な目覚めを演じた。手慣れたものだ。

 一馬は電話を終えるところだった。相手にお礼を言って、受話器を置いた。

 「おはよう。そんなところで、よく寝れるなぁ」気づかうような呼びかけがうれしかった。

 「おはようございます」あくび混じりに挨拶を返す。
 彼に下心を抱いていることは、絶対に気づかれてはならない。一馬に変態を見るような目で見られることだけは、耐えられなかった。

 「家で寝るよりよく眠れるんですよね」

 「変わってるなぁ……」
 帳簿を片づけて、一馬が立ちあがった。

 「ちょっと荷台の荷物を片づけてくるよ」

 「珍しいですね。トラックに積んだままなんて」

 「ちょっと急いでたもんでな」
 一馬は意味深な笑みを残して表に出ていき、すぐにバケツや掃除道具を持って戻ってきた。ざっと洗い場で洗い、奥の倉庫に片づけに入る。

 そのとき表のドアが開いた。
「すみませーん」

 真澄は立ちあがった。
 「はい、いらっしゃい」反射的に営業用の笑みが浮かぶ。
 見覚えのある女だった。

 彼女も真澄に気づいて、眉をひそめる。記憶を探っているようだ。

 「真澄!代わりに話、聞いといて」奥から一馬が声を張りあげた。

 女が怪訝な表情を浮かべた。
 「マスミさん?確か、名前は……」
 彼女がそこまで言ったとき、記憶が蘇ってきた。

 氏島捺希。ラブトラップの獲物だ。

 氏島は――今の名字は違うと思うが――捺希は、彼が名乗った名前と違うことに疑問を抱いている。何年も前に、たった1度会っただけの男の名前をよく覚えていられたものだ。

 そこで、はたと名刺を渡したことを思い出した。
 彼女には目と耳で、偽名を記憶に刻みつける時間があったわけだ。さて、こういう場合どうしたらいい?だいたい彼女は何をしに来たんだ?

 「何だって?」
 真澄が迷っている間に、一馬が奥から出てきた。そして氏島を――捺希を見たとたん、彼の顔が空白になった。

 それはそうだろう。罠に掛けた女が目の前に現れたのだ。どうしていいか、わからないに決まっている。
 気まずい緊張が漂い、沈黙の数分が流れた。

 沈黙を破ったのは一馬だった。
 「捺希……」こともあろうに、彼女を名前で呼んだ。

 ギョッとして彼を見た。ショックと不安がボディブローのように心臓にめり込む。
 何で呼び捨てなんだ!?答はすぐそこにあるのに、直視する勇気がない。

 「私、この方に会ったことがあって……」捺希はおかしな雰囲気に戸惑っている。

 だが真澄の目は一馬に釘付けだった。

 一馬の顔に苦痛が、迷いが、執着がよぎるのを真澄は見た。
 一馬と捺希を見比べる。彼女は今、こちらを見ていた。真澄が彼女と会ったときのいきさつを話すのを待っているのだ。

 一馬は……覚悟を決めていた。好きな人に秘密がバレて嫌われる覚悟を、別れに耐える覚悟をしている。暗く悲壮な顔だった。

 真澄は観念した。
 これがここ最近、一馬の機嫌が良かった理由だ。バッグやアクセサリーのことを訊いてこなかったのは、彼女がそういう物を欲しがらなかったからにすぎない。
 だが、今からでも遅くはない。自分たちがラブトラップを仕掛けたことをぶちまければ、ふたりの仲は木っ端微塵だ。2度と捺希が現れることはないだろう。だけど……。

 肩の力を抜いて深く息を吐くと、胸の痛みが少しだけましになった。

 「彼女とは――」一馬に言った。「いつだったか、どこかの定食屋でえらい迷惑をかけたんです」

 一馬の緊張が緩むのが伝わってくる。だが顔はまだ強張ったままだ。

 「迷惑だなんて……」ようやくこう着状態が解けて安心したのか、捺希があやふやに笑う。
 「それより、お勤めがこちらの便利屋さんだとは思いませんでした」真澄に話しかけながら、チラリと一馬を見る。彼女も彼の様子が気になるようだ。

 「実は――」一馬を助けたい一心で言葉を継いだ。「本業はホストなんです」

 「そうですか……」一馬に気を取られ、上の空だ。

 「だから前に言った名前は源氏名なんですよ」

 ようやく捺希の意識が真澄に向いた。
 「そうなんですか?」なんとなく半信半疑の顔をしている。

 「職業病で女性に名乗るときは、ついそっちを使ってしまうんです。本名は原村真澄。どうぞよろしく」彼女の気を惹こうと、自慢の笑みで自己紹介をした。

 「彼女は榊原捺希だ」余裕を取り戻した一馬が割って入ってきた。

 とたんに捺希の顔がほころび、ぺこりと頭を下げる。

 一馬が彼女の隣りに並んだ。
 「彼女とつき合ってるんだ」言う必要もないのに、一馬が言った。

 胸にズキンと痛みが走る。
 一馬と目が合うと、目顔で感謝が返ってきた。

 痛みを呑み込んだ。
 「へえー」演じるのは得意だ。「それはそれは」ニヤニヤと笑って見せる。

 捺希は赤くなっている。

 一馬が彼女に目をやった。
 「どうした?」くるみ込むような甘い声だ。真澄にはかけたことのない訊き方だった。

 「忙しいだろうから、帰ろうと思って」

 「送っていくよ」

 捺希が首を振った。
 「いいの。黙って帰ったら心配すると思って、寄っただけなの」

 つまりふたりは2階にいたのだ。荷物を降ろす間も惜しんで、2階に直行したというわけだ。

 嫉妬が酸のように真澄を焼いた。いつもなら冗談のひとつも浮かぶところだが、それどころじゃない。感情を表に出すまいと必死だった。

 「いいから」一馬が優しく言って、仲の良さを見せつける。「先に車に乗っててくれ。こっちはもう終わったから、すぐ行くよ」
 彼女の肩に腕を回して、外に誘導していく。

 出る直前、捺希がパッと振り返り、申し訳なさそうに真澄にお辞儀した。

 真澄はなんとか淡い笑みを返すのがやっとだった。

 捺希を軽に乗せると、すぐに一馬が戻ってきた。
 「ありがとう。助かったよ」開口一番、一馬が言った。

 助けたくなんかなかった。女に生まれてさえいたら、面と向かって闘っていたところだ。

 「一馬さんが助けてほしそうな顔してたから……」
 一馬のためだった。彼につらい思いをさせたくなかった。

 「悪りぃ……」面目なさそうに彼がうつむいた。「嘘までつかせることになって、ごめんな」いつになく真剣な表情だ。
 「あのことはいつか捺希に話そうと思っている。そのときは真澄の分もちゃんと謝るから、それまで黙っててくれないか?」

 一馬に頼まれたら断れるわけがない。
 「いいですよ」涙を呑んで暢気そうに引き受けた。

 「ありがとう。恩に着るよ」たちまち一馬が元気を取り戻した。「たぶん帰りは遅くなるから、出るときは鍵、頼むな」ウキウキと一馬が恋人の元へと去っていく。
 やがて幸せなふたりを乗せた軽が真澄を置いて出て行った。

 「くそっ!」ロッカーを殴りつけた。
 拳に激痛が走り、ボロいロッカーにへこみがまたひとつ増える。

 今回も捺希に誘惑の微笑みは効かず、一馬のことばかり気にしていた。その上、一馬が男の縄張り意識全開割って入り、結局、彼の執着ぶりを思い知らされただけだ。
 しかも“あのこと”を話すという。もちろん“あのこと”とはラブトラップのことに違いない。それを話すということは、わざわざ修羅場を呼び寄せるようなものだ。
 それでも話そうとしている。それだけ彼女に対して誠実でありたいと思っているからだ。それだけ真剣なのだ。

 一馬の覚悟を決めた顔が、脳裏に浮かぶ。誠実な一馬と杓子定規な捺希。もしかしたら彼は、あの女と結婚するつもりかもしれない。
 耐えられない!とてもじゃないが、傍で幸せなふたりを見守る神経は持ち合わせていない。
 切なさと苦しさに涙がにじむ。拳の痛みよりも心がズキズキと痛んだ。
 見込みのない恋にかかずらっているよりも他にすることはあるはずだ。それなのに先に行くことができない。

 まだ希望はある。一馬が告白したとき、あの女が彼を許さない可能性は大きい。
 まだ一馬を諦めることはできなかった。






 

次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ