イブの夜は更けて(R18)
□幸せと破滅の予感
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21時15分
仕事帰りに待ち合わせたコーヒーショップは全面ガラス張りで、外からもよく店内が見渡せた。
15分は早く着いたはずなのに、原村真澄はすでに来ていて、コーヒーを前にくつろいでいる。濃い紫のセーターに黒の革パン姿がモデルのようで、やたら目立っていた。
捺希はコーヒーを買い、原村の席に向かった。
近づくと、周りの女性客がチラチラ彼を見ているのにいやでも気づく。
「お待たせして、すみません」注目の輪の中に入り、彼に詫びた。
「僕も今、来たばかりです」組んでいた脚をほどき、小さくニコッと笑った。余裕の表情だ。
まさか自分の悪事がバレたとはつゆほども思っていないのだろう。それとも私が一馬の目を盗んで、彼と浮気でもするとでも思っているのだろうか?
「急にお呼びたてして、すみません」向かいに腰を下ろし、重ねて謝った。
昨日、一馬に会うことが叶わなかったので、あれから〈よろず屋〉に電話して直接対決することにしたのだ。
原村がホストクラブに出勤する前に、いつも〈よろず屋〉に寄っていることは一馬から聞いていた。〈よろず屋〉の鍵も持っていて、それこそ彼は一馬がいない間、何でも好きなことができるわけだ。
「構いませんよ。今夜は休みだし」原村が愛想よく笑った。一馬が“太陽みたいな”と言った、あの笑顔だ。
捺希は笑みを返さなかった。彼女に言わせれば、嘘臭いただのスポットライトだ。この笑顔で一馬を騙しているのかと思うと、ますます不信感が募る。
「それで、話というのは何でしょう?」彼女のつれなさをものともせず、原村が訊いてきた。
「実は昨日、懐かしいものを見つけたんですよ」作り笑いを剥ぎ取ってやりたくて、早々にジャブを繰り出す。
望み通りに原村の笑みが翳り、眉をひそめた。
捺希はバックから名刺のコピーを出し、彼の前に広げた。本物は彼に奪い取られないよう会社の引き出しに仕舞ってある。
今や原村は無表情になり、コピーを凝視していた。
「確か、“村井真”は源氏名だとおっしゃってましたよね?」用心深く問いつめた。
原村が視線を上げる。
「それが何か?」これまでの愛想のよさとは対照的な冷たい顔だ。
たぶんこれこそが彼の本当の姿なのだろう。
「もし、そうなら」コピーを指した。「ここには便利屋ではなく、クラブの名前があるはずですよね?」
原村は顔色ひとつ変えない。
捺希は容赦なく続けた。
「原村さんは一馬さんに内緒で、〈よろず屋〉を利用してるんじゃないですか?」
原村が呆気に取られて目を見開いた。
だがジワジワと歪んだ笑みに変わり、ふてぶてしく脚を組んだ。
「だったら、どうします?」悪びれた様子もなく逆に訊いてきた。
フツフツと怒りが湧いた。この男は、私には何もできないと思っているのだ。
顎を上げて、負けじと反撃する。
「この名刺を一馬さんに見せて、あなたが〈よろず屋〉に出入りできないようにするつもりです」
原村が鼻で笑った。憐れみの視線を向けられ、彼の顔にコーヒーをぶちまけたくなる。
「それは、脅迫ですか?」
「そう取ってもらって結構です」憤然と返す。
「それならお返しに、僕もあなたが平気で脅迫ができる人だと一馬さんに報告しましょう。そうすれば、彼の目も醒めるでしょうから」満面にきれいな笑みをたたえ、原村が言った。
捺希は蒼白になって彼を凝視した。
この男は悪魔だ。美しい顔の裏側に、毒々しい本性を隠している。
原村に比べたら、一馬は天使だ。産まれたての赤ん坊だ。もちろん見た目ではない。その精神がそれほど美しいという意味で。そんな危険な男とも知らず、一馬は彼を信頼し鍵まで預けているのだ。
一馬を守りたい一心で原村を睨みつけた。
「言えば!」売り言葉に買い言葉で喚いた。
周囲がざわめく。
「それであなたから彼を守れるなら、安いものよ!」軽蔑を込め言葉を叩きつけた。
いきなり原村から余裕の笑みが剥がれ落ちた。色を失い、悔しさに揺れ、苦々しく歪む。
沈黙の中、睨み合いが続いた。険悪な顔からは彼が何を考えているか全くわからなかった。
「ハハハ……」やがて険しさが緩み、原村が笑った。「冗談ですよ」
しかし怒りだか苦悩だか知らないが、透けて見えている。とても冗談とは思えなかった。
「名刺を見せたかったら、見せればいい。どうせ僕と一馬さんの関係には何の影響もないんだから……。どっちにしても――」原村が緊張を解いて、椅子に深々ともたれた。
「一馬さんが予定している大仕事がうまくいったら、〈よろず屋〉は辞めるつもりだし……」
呆気に取られた。なぜ彼が急に態度を変えたのかわからない。
「私を油断させようとしているの?」1度蒔かれた不信の種は、そう簡単に刈り取れやしないのだ。
捺希は追求を続けた。
「〈よろず屋〉を辞めるって、正確にはいつ?」
原村が面倒くさそうに、大きなため息をつく。
「大仕事がうまくいったとき」
「じゃあ、うまくいかなかったときは、辞めないってこと?」
「そういうこと」
やっぱりだ。うまく言いくるめて、一馬に名刺を見せさせまいとしているだけだ。
捺希はまなざしを厳しくして、彼を見据えた。
「本当はこういう手は使いたくないんです。仕事が終わったら、うまくいかなくても辞めてもらえませんか?」
「いやだ」即答だった。
「それなら名刺を使うことになりますよ」
「どうぞ」原村は平然と返した。
「それにそのときには僕の勝ちが決まっているから、あなたはいないと思うよ」妖艶に笑った。
捺希は眉をひそめた。彼の言っている意味がわからない。それとも心配していたように、同棲を断ったことで一馬が別れを決意したのだろうか?原村はそれを聞いたのか?
だったら捺希に打つ手はなかった。別れたら胸の張り裂ける思いをするとわかっているが、そのために同棲はできない。あの部屋を解約すると考えただけで、呼吸もままならなくなる有り様だ。
「どういう意味?」
「別に……。話がそれだけなら、僕は失礼して――」
「待って!」原村が立ち去ろうとするので、慌てて引き留めた。
「これだけは約束して!これから何があろうと、一馬さんを裏切ることだけは絶対しないで。お願いします」涙を呑んで、頭を下げた。
もし別れが迫っているなら、情けなかろうが悔しかろうが、彼に縋るしかない。
原村の瞳が揺れた。
「僕はあなたよりずっと一馬さんとの付き合いは長いんだ。もし裏切っていたら、とっくにバレてるよ。心配しなくても彼のマイナスになることは絶対しない。約束する」原村にしては真剣な表情だ。
こうなったら彼を信じるしかない。
「ありがとう」
原村が流れるような動きで席を立ち、捺希は長身の後ろ姿を見送った。
そして居心地の悪い注目がひとり残った彼女を取り囲む。さっきの小さな諍いで周りは興味津々だ。きっと別れ話だとでも思っているのだろう。
捺希はそそくさと荷物をまとめ、店を出た。
街はクリスマス一色だった。今日は12月にしては暖かい日だったが、さすがに夜は冷える。寒さに身をすぼめ、迫りくる別れの予感に怯えた。
明日にも一馬が別れを言ってくるかもしれない。ここ数日会えなかったのは、別れる言い訳を探していたのだろうか?それとも私が愛想づかしするのを待っているの?
気分は落ち込む一方だ。
浮かれた喧騒にますます惨めさをかき立てられ、クリスマスイルミネーションが涙ににじんだ。
そう言えば前にもこんなことがあった。クリスマスなんて大嫌いだ。