イブの夜は更けて(R18)

□報い
1ページ/6ページ



    41

 どうして、こうなるんだ?氏島勇司は自問した。
 数時間前までは全てがうまくいっていたはずだ。美羽が瞳を輝かせて、『妊娠したみたい』と告白するまでは。

 赤ん坊なんてひとりでも厄介なのに、もうひとりだなんてとんでもない。
 それに本当に俺の子か?そりゃあ、快感が損なわれるのがいやで生でやったことはあるが、1回かそこらで妊娠するものか?他にも付き合っている奴がいるんじゃないのか?

 美羽と別れるつもりはないが、とにかく子どもだけはごめんだった。だから、『子どもを産むにはきみは若すぎる』と諭した。

 それなのに彼女はちっとも言うことを聞きやしない『あなたの子どもを産みたいの』の一点張りだ。愛してるだの、愛の結晶だの、本当に愛しているなら俺の言う通りにするんじゃないのか?

 仕方がないので、自分が妻帯者であることを話した。そしたらたちまち大惨事だ。いくら『離婚するつもりだ』と言ったところで、ヒステリックに泣き喚いて話になりやしない。
 結局、中絶を承諾させることもできぬまま部屋を追い出された。あんなに素直でかわいい女だったのに、とんだ番狂わせだ。

 しぶしぶ勇司は自宅に向かった。厄介な赤ん坊が泣き叫ぶ家に。もはや我が家は帰りたい場所ではなくなっていた。

 自宅のドアを開けると、奥からくぐもった赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。

 それだけで憂鬱になった。この寒空の中、再び外へ行く気にもなれず、仕方なしに玄関を入って鍵をかける。
 泣き声はさらに大きくなり、妻は迎えてもくれない。前は帰るとすぐに飛んできてくれたのに、今ではこの有り様だ。

 勇司はイライラとため息を吐き出し、リビングのドアを開けた。

 そこはまさに修羅場だった。泣き叫ぶ声が耳をつんざき、あちらこちらに赤や黄色のおもちゃが転がっている。おまけに臭かった。

 その臭いの元はラグの上で仰向けに転がり、母親にオムツを替えてもらっている。せっかくきれいにしてもらっているのに、息子は不満いっぱいだ。

 やっている香織はそれ以上に不機嫌そうだった。彼が帰ってきたのに気づいているはずなのに、見向きもしない。

 家族のために1日働いて帰ってきたのに、これかよ!

 「ただいま!」
 勇司は鞄をソファに投げ出し、赤ん坊に負けじと大声を上げた。

 ようやく香織がこちらを向いた。返事はなく凍てつく視線を向けてくる。

 自由になった息子は泣きやみ、最初に目についたオモチャにヨタヨタと突進していく。

 「遅くまで仕事をして帰ってきたのに、何だその態度は?」

 香織が立ち上がった。
 「ほんとに仕事?」

 「年末は何かと忙しいんだ」内心ドキッとしたが、平然と返した。

 彼女が不信感いっぱいの顔で近づいてくる。

 手に丸めたオムツを持っているのに気づき、思わず後ずさった。

 勇司がたじろいだのを見て、彼女が苦笑を浮かべた。軽蔑の笑いだ。

 むかついたが、あの汚れた手で掴みかかられてはたまらないので堪えた。

 とりあえず香織はゴミを片付け、手を洗っているのだから我慢したかいはあったというものだ。それでもひと言、言ってやらなきゃ気が済まない。
 小言の材料を求めて辺りを見回した。

 息子は味でもついてるんじゃないかと思うくらい、赤いオモチャをしゃぶっている。

 嫌悪感に目をそらした。
 こんな思いをしてまで家族を養う義理があるのか?美羽には流れで『離婚する』と言ったが、これは本気で考えた方がいいのかもしれない。香織にさっさと親権を渡して、赤ん坊もろともこの家から出て行ってくれたらさぞせいせいするだろう。
 ……待てよ。そうなったら養育費を払わなきゃならなくなるんじゃないのか?慰謝料やらなんやら大変なことになりそうだ。
 それより親権は渡さず、両親に育ててもらうのはどうだろう?跡取り息子だし、仕事が忙しいと言えば喜んで孫の面倒を見てくれるはずだ。まぁ、香織が面倒見たいと言うなら見させてやってもいいが、あくまで親権は俺のものだ。
 またあの便利屋に頼んで、香織が親として相応しくない証拠をでっち上げてもらおうか?

 勇司が別れる算段を模索していると、香織が仏頂面で戻ってきた。どこから出してきたのか茶封筒を持っている。

 「突っ立ってないで、座れば」開口一番、香織が言った。

 カチンときた。
 「俺の家だぞ!座りたくなったら、座る!」これまで我慢してきた不満が大声になって飛び出した。

 声に驚いた赤ん坊が一瞬の間を置いて火がついたように泣き出した。

 イライラは募るばかりだ。
 「静かにさせてくれ!」たまりかねて喚いた。

 「あんたが泣かしたんでしょうが!たまには抱き上げて、あやしてみなさいよ!」口の達者な香織が、負けじと言い返してくる。

 泣き叫ぶ生き物に目をやり、ゾッとした。
 涙ばかりか鼻水まで垂れ流している。抱き上げるなんてとんでもない。触るのもいやだ。

 「そういうのはおまえの役目だろ」これ以上大泣きされたくなくて、声を落とした。

 香織が顔を歪めた。笑いとも泣き顔ともつかないおかしな顔だ。
 「あんたなんかと結婚しなけりゃよかった」彼女がボソッとつぶやき、それが嫌悪の表情だとわかった。

 チクリと心が傷ついた。次いでムカムカと腹が立ち、香織を睨みつける。
 「それは俺の台詞だ!」感情にまかせて、つい怒鳴ってしまった。

 恐れた通り、赤ん坊が悲鳴のような泣き声を上げる。あんな小さな身体でよくもあんな大声が出せるものだ。

 香織が目を怒らせて、封筒を彼の胸に突きつけた。

 勇司が反射的にそれを受け取ると、彼女は赤ん坊をなだめにいった。打って変わって優しい声になる。

 そんな声にさえ癇に障ったが、赤ん坊を黙らせてくれるなら文句はない。だから、おとなしく受け取った封筒を開いた。

 喧騒は忘れ去られた。そこには離婚届け用紙を始めとした親権譲渡書類に養育費の誓約書、財産分与の請求書まで入っている。おまけに彼の調査報告書と、浮気の証拠写真が数枚。以前、勇司がでっち上げたのとは違う正真正銘の証拠だ。

 心臓がバクバクいっている。いつも香織の1歩先を行っていると思っていたのに、いきなり銃を突きつけられた気分だ。

 「な、何だ、これは!?」悔しいことにどもってしまった。
 浮気の尻尾を掴まれ、動揺していた。無理難題を押しつけられ、焦っていた。

 「見ての通りよ」香織が余裕で答える。
 息子をロケットランチァーであるかのように抱え、闘う戦士のようだ。

 「離婚はしてやる!」なんとか主導権を取り戻そうと、躍起になった。「だが俺の金には、1円たりとも手はつけさせないからな」

 香織が鼻で笑った。
 「あんたは家庭があるのに浮気した。だから、慰謝料はきっちり払ってもらうわよ」

 「浮気をしたのは、おまえが子どもにかまけて俺をないがしろにしたからだろ?」

 香織の目が鋭く、冷たくなった。
 「私がオムツを替えていて、出迎えなかったから?泣いてる勇太の相手をして、おかずをチンしてやらなかったから?食事は作ってやってるんだから、チンくらい自分でしなさいよね!赤ん坊じゃないんだからレンジの使い方ぐらいわかるでしょ?それともあんたがその間、勇太を見ててくれる?」せせら笑った。

 呼び方がいつの間にか“あんた”に変わっているのに気づき、歯噛みした。香織の“あんた”はいかにも見下した感じがする。

 「あんたのせいで――」彼女が“あんた”を連発した。「私は子どもを連れて、1からやり直さなくちゃならなくなったの。慰謝料を払うのは当然でしょ」

 「親権は俺がもらう!」
 なんとか形勢を逆転したかった。でないと、身ぐるみ剥がされる。

 「そう?」
 香織が息子を抱いて近づいてきた。

 赤ん坊は泣き止んでいたが、顔は涙と鼻水でグチャグチャだ。

 「じゃあ、ちゃんと勇太の世話ができるか、やって見せて」鼻先に赤ん坊を突きつけられた。

 反射的に身体が逃げた。

 いやなのは息子も同じようで、早くも顔をそむけている。身体をよじり、涙の発作が始まる寸前だ。

 「止めろよ!勇太がいやがってるだろ!」慌てて言った。
 こんな間近で泣かれたらたまったもんじゃない。

 「いやがってるのは、勇太だけ?」即座に訊き返された。なんていやな奴だ。心底、意地が悪い。

 「そんなわけないだろ」嘘をつく。

 「それなら相手してみなさいよ」
 忌々しいことに、しつこく弱いところを突いてくる。胸にしがみつく息子を無理矢理引っぺがし、彼に押しつけてきた。

 たちまち泣き声が上がった。

 「止めろ!」我慢でなかった。大声も、鼻水も、よだれも、虫酸が走る。
 泣き喚く赤ん坊を押し戻し、後ろに下がった。

 「ほらね」
 香織が悪魔のような笑みを浮かべ、これ見よがしに言った。「今度、私から親権を奪おうだなんて血迷った考えが浮かんだら、今のことを思い出して」

 こっぴどく言い負かされて、ぐうの音も出ない。香織の勝ち誇った顔を見ると、殴ってやりたくなる。

 だが勇司は、女性に暴力をふるう男を軽蔑していた。だから黙って耐え、考えを巡らせた。

 口の立つ香織に、口論で勝てるわけがなかった。しかも、出遅れている。
 香織を出し抜くには、ここは一旦引き下がり計画を練らなければならない。美羽にはしばらく会えないが、電話して“彼女のせいで離婚が不利になった”と告げよう。そしたら罪悪感で赤ん坊を諦めてくれるかもしれない。晴れて離婚したら、また連絡を取ればいい。
 とりあえず今は香織をどうするか、だ。

 「わかったよ」しおらしく答えた。「とにかく今日は、疲れたから話はここまでだ。きみも勇太も癒やしてくれそうにないから、もう寝るよ」嫌味を言ってやった。

 「忘れ物」
 嫌味は通じなかったようだ。香織が例の書類の束を突き出してくる。

 勇司は全てを元の封筒に戻し、最近、寝ぐらにしている書斎に入った。ふたりの寝室は香織がベビーベッドを運び込んだせいで、楽しむ場所でも休む場所でもなくなった。

 これは離婚理由になるんじゃないのか?見ていろ。闘いはこれからだ。








次へ
前の章へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ


©フォレストページ