イブの夜は更けて(R18)
□報い
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今日の辻丸不動産は静かだった。時雨交じりの通りは歩く人もまばらで、入店者も少ない。客商売だからこんな日もあるものだ。
捺希は溜まっていた事務仕事をやっつけ、雑用を片づけた。今夜、一馬に会えるのが楽しみだったのでなおさら1日が長い。
終業時間の1時間前になると、社長の燿子が「今日は終わり」と号令をかけた。
それから片づけや戸締りやらして20分後に会社を出たが、その間、電話1本鳴らなかった。翌日、仕事だったので会社の前でそれぞれの方向に別れ、捺希は携帯電話を開いた。
だが一馬が迎えに来る間に向こうに着けるのに、連絡する意味があるだろうか?お泊りセットは持ってきていたし、一馬の家はここからひと駅だ。
捺希は携帯電話をたたみ、元あった場所にしまった。
顔を上げると、10メートル先で真鍋が燿子の手を取り自分のポケットに入れるところだった。
「仲いいよね」
その声に振り返ると、高橋が立っていた。
「専務があんなに甘々になるとは思わなかった」
「ほんとに」ふたりの幸せが伝染し、頬が緩む。
社長と専務が寄り添って遠ざかっていく。
捺希も大ぶりのかばんをかつぎ直し、駅に向かおうとした。
「それじゃ――」
「送ろうか?荷物あるみたいだし……」
ドキッとして、高橋に目をやった。これから恋人に会いにいくのに、彼に送ってもらうわけにはいかない。
高橋が彼女の返事を待っている。
「ありがとうございます。でも、これから彼氏に会うから」
「えっ!?」高橋が目をぱちくりさせた。「あ……、そうだよね」驚きを笑いでごまかした。
「あれからだいぶ経つし、彼氏だってできるよね」なんとなく気まずい雰囲気だ。
なんだか悪いことをしたような気になってくる。
「ごめんなさい」とりあえず謝った。
「いいって」高橋が笑って手を振った。「彼氏と仲良くね」
捺希ははにかんでうなずいた。
「じゃあ」
ふたりはそこで別れ、捺希は駅に向かった。
高橋は優しい人だ。いつもさりげない気遣いを見せてくれる。去年の秋に恋人と別れてからは淋しそうで、捺希はそれとなく彼を励ましてきた。高橋には幸せになってほしかった。
<よろず屋>にはあたたかい光が満ち、捺希を歓迎しているかのようだった。
店舗の前には一馬の2台の車の他に見知らぬ車が停まっている。つまり客がいるということだ。
入るか入るまいか迷った。時雨は止んだものの、痛いくらいの寒さだ。とりあえず捺希は北風をしのげる軒下に入り、どうするか考えることにした。
店の中からはくぐもった話し声が聞こえてくる。内容まではわからないが、緊迫した感じだった。
ますます入りづらくなる。どうやら場所を移して待った方がよさそうだ。捺希はメールだけしておこうとバッグを手探りした。
「そんなことは、わかってる!」いきなり怒鳴り声が漏れ聞こえた。
捺希は身を縮めて店を振り返った。一馬が心配で、中を透かし見る。
その位置からは一馬は見えなかったが、怒鳴る男の横顔が見えた。氏島勇司だった。
2年ぶりに見る元夫は彼女が知っていた男と違って見えた。怒っているせいもあるかと思うが、若さというか爽やかさが消えている。彼に再会したら胸が痛むだろうかと思ったこともあった。だが感じたのは嫌悪感だけだった。
こんな偶然があるだろうか?まさか私が彼と付き合っていると知って、文句を言いに来たとか?そんな馬鹿な。
いけないと思いつつ、聞き耳を立てた。無関心ではいられなかった。
「なんであんたが香織の味方をしてるのか、って訊いてるんだ!」またしても氏島が怒鳴った。
「依頼がありましたから」
一馬の声は平静だったので聞き取りにくかったが、ドアの隙間に耳を近づけるとどうにか聞こえた。
「金さえ払えば、何でもするのか!?」氏島が喚いている。冷静さのかけらもなく、見苦しいくらいだ。
「あいつより先に俺が客だったんだから、ふつう俺に義理立てするのが筋だろう!」
「そういう決まりはありません。それに、何でもするわけでもありません」一馬が淡々と返す。「事実、あなたに依頼されたラブ・トラップのあまりの理不尽さに嫌気が差しましてね。その後、その手の仕事は請けないことにしたんです」
捺希はヨロリと後ずさり、軒下にしゃがみ込んだ。心臓が重く打っている。訳もわからぬまま、いきなり頬をはたかれた気分だ。
今すごく重要なことを聞いたのに、考えまいとした。目の前の現実から目をそむけ、苦痛の入り口で踏み留まる。でないとこの場で泣きくずれてしまいそうだ。今は泣けない。ここでは泣けない。誰にも遠慮のいらない自分だけの巣に戻るまでは、耐えなくては……。
捺希はわななく膝に力を入れ、立ち上がった。そのときドアが開き、反射的に振り向いた。
氏島が驚愕の表情で彼女を見ている。店内に顔を戻し、再び捺希を見たときには侮蔑の表情に変わっていた。
「俺がキューピットってわけか?」氏島が嘲り、最悪の予想の裏づけをした。
ありがたいことに怒りがムクムク湧いてきた。あの当時、言えなかったあらゆるうっぷんが頭をもたげる。
「捺希!」一馬が血相を変えて飛び出してきた。
捺希は一馬を見なかった。見たらしがみついている怒りが保てなくなる。
氏島が捺希と一馬を見比べ、いやらしい笑みを浮かべた。
「なあ、便利屋。俺の棄てた女はどうだ?俺のおかげでつき合えるようになったんだから、感謝の言葉ぐらいあってもいいんじゃないのか?」厚かましくも、のたまった。
「黙れ、くそ野郎!」自分でも驚く言葉が飛び出した。
“くそ野郎”はいつか社長が使っていた言い回しだ。これまでこんな酷い言葉を使ったことがなかった。離婚騒動のときですら言いたいことも言えず、別れた。人を罠にかけておきながら、ふざけた言い種に頭にきていた。
たちまち氏島が憤怒に燃え上がった。元からイラついていたのだから、怒りのスイッチが入るのは簡単だ。殺気立って、一歩踏み出してきた。
すかさず一馬が立ちはだかる。
「彼女に何かするつもりなら、覚悟しろよ。このくそ野郎」どすの効いた声で凄んだ。大きな背中に緊張がみなぎっている。
ふたりの体格の差は歴然だった。身長にしろ、筋肉にしろ、どう見たって氏島に勝ち目はない。
氏島が殺意のこもった一瞥を投げ、憤然と踵を返した。
車道に出て行くとき他の車にかすりそうになり、鳴り響くクラクションが神経を逆撫でした。
そして、ふたりだけになった。