イブの夜は更けて(R18)
□報い
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「入って」
一馬が軒下に置き去りになっていた鞄を取りあげた。彼の家に一泊するために詰めた鞄をだ。捺希に目をそそぎ、店に入るのを待っている。固い表情で、そこにはみじんも後ろめたさはない。
あのとき、初めて会ったときも一馬は屈託のない表情で近づいてきた。人の親切を利用して、写真を撮るために。罪の意識はかけらも感じられなかった。
あの写真のせいでどれほど酷い目に遭ったことか……。
怒りが全身を駆け巡る。
「私の鞄を返して」
「話を聞いてもらうまで、返さない」ぴしゃりと言い返された。
憎悪に震えた。いけしゃあしゃあとよくも言えたものだ。彼の言いなりになるくらいなら、死んだ方がましだ。鞄はくれてやる。だけど2度と彼の口車に乗るものか。
捺希は踵を返した。
しかし1歩も行かないうちに腕を掴まれ、<よろず屋>に引きずり込まれた。
「触らないで!」
捺希が叫ぶと、一馬はすんなり手を放した。
だが扉の前に立ちはだかり、行く手をふさいでいる。大きな身体は氏島のとき以上に脅威だった。
だから噛みついた。力勝負ではとてもかなわないので、言葉で攻撃した。
「何?言い訳でもするつもり?何を言ったって、あなたのやったことは取り消せないわよ」
「あれは仕事だった」悪びれた様子もなく言ってのける。
今朝別れたときにはあんなに甘い顔だったのに、今は顎が髭で黒ずみ岩のようにいかめしい表情だ。朝の出来事が遠い昔のようだった。
「だから自分は悪くないって?」彼の言わんとすることを察して訊いた。
責任逃れの言い種に幻滅を感じた。
「いいや。きみを苦しめたことは後悔しているが、それでもあいつと別れてくれてよかったと思っている」
「そう言えば私が喜ぶとでも思っているの?」
一馬の言う言葉のひとつひとつにむかついた。
「自分が同じ目に遭ったらどう思うか想像できる?」
一馬が暗い目で捺希を見つめた。それでも彼女を解放するつもりはないようで、出入り口を守っている。
「きみがどれほどつらい思いをしたかわかっている。だから、俺の手で幸せにしたかった。今夜、氏島が来なければ、俺の口から真実を話すつもりだった」
「あなたに私の苦しみがわかるわけない!」
人の気も知らないで、わかった風な口をきく彼が憎たらしい。
幸せにしたかった?自分から言うつもりだった?達者な役者は嘘もうまい。こんな男に惚れていたかと思うと、泣けてきた。
ふいにこぼれた涙をグイッと拳で拭う。彼の前で泣きたくなかった。
「……偉そうに……」傷つけられた分だけ彼を傷つけてやりたい。「いい人ぶって、自分を正当化しようとしているだけじゃないの?私から見たら、あなたも氏島と同じよ!」
一馬が歯を食いしばるのがわかった。
重苦しい沈黙が流れ、たちこめる緊張は触れられそうなくらいだ。
「本当はそうじゃないってわかってるはずだ」苦々しく目をすがめ、唸る。
氏島と同類と言われて、気に食わないのだろう。
本心では全く同じとは思っていないが、誰が教えてやるものか。氏島よりずっと優しいのは認めるけれど、それが演技じゃないって言い切れる?ペテン師は疑われて当然だ。
「どこが違うの?氏島と共謀して私を騙し、さっきの氏島みたいに私を威圧してるじゃないの」
「ぜんぜん違う!あいつの仕事を引き受けたのは確かだが、あの頃はきみという人間を知らなかった。だけど、そのおかげできみと知り合えた」一馬の声が甘くなった。いかさま師の手口だ。
「出会いはどうであれ、会えてよかったと思っている。嘘じゃない。きみと結婚したいくらい本気だ」
捺希は鼻で笑った。熱っぽい目を見まいとした。もう彼に騙されるのはごめんだ。
「誰だってつき合って2、3ヶ月は本気よ。氏島だってそうだった。ところが結婚して2、3年もするともう飽きてくる。あなたの場合、罠を仕掛けるのによそに頼む必要もないわね。社員を使って……」そこまでしゃべったとき、これまで解けなかった謎に答えが出た。
<よろず屋>のアルバイト店員、原村真澄。再会したときの様子、でたらめの名刺の意味。……彼がひとつ目の罠だ。どうりで名刺の脅しが効かなかったはずだ。さぞや原村は愉快だっただろう。
そうとも知らず一馬を守ろうと必死になり、いい物笑いの種だ。原村はあのことを一馬に話したのだろうか?ふたりして笑ったのだろうか?
その様子が脳裏に浮かび、怒りで頭が吹き飛びそうになった。とても正気を保っていられない。一馬の傍にいるのが一時も耐えられなくなった。
「どいて!」怒りにまかせて大声をあげ、彼を押しのけようとした。
無駄なあがきだった。一馬はやすやすと捺希を押さえ込んだ。
「悪かった。傷つけてごめん。俺がその傷を癒すから。ずっと一緒にいるから」
耳元に彼が囁いていたが、心には届かなかった。
捺希は蹴りつけ、もがき続けた。
なんとか脇の下をくぐって抜け出せたが、今度は後ろからウエストに腕を回され引き戻された。そして、身動きひとつできなくなった。背後に彼の身体が密着し、両手首をがっちり掴まれているので、爪を立てることも噛みつくこともできない。もとより最初の格闘で消耗しつくし、身体をひねるのさえ億劫だ。
捺希は目を閉じて、肩で息をした。
一馬が顔をすり寄せてくる。悔しいことに、彼は息ひとつ乱れていない。
少しでも距離を取ろうと頭を前に倒した。
「放して」ようやくしゃべれるっだけの力を取り戻したので、冷たく突っぱねた。
「話を聞いてくれるまで放さない」
なんて癪に障る男だろう。彼と同じ腕力があれば、ひねり潰してやれるのに。
「じゃあ、勝手にしゃべれば!」捨て鉢になって言い放った。
どうせ力にものを言わせ、自分のしたいようにするのだ。それならさっさと終わらせたかった。
「1度仕事を引き受けた以上、やるしかなかった」一馬が言い訳を並べ始めた。「真澄は俺に頼まれて、きみに近づいた。再会した後も俺が話すまでラブ・トラップのことは話さないよう約束させた。このことは自分の口から告白したかったからだ」
彼がため息をつき、彼女の髪を揺らす。
「仕事を終えたとき、後味が悪かった。だから、その手の仕事は2度と請けないことにした」
今更、何を言ったところで、やったことに変わりはない。聞きたくもない御託を聞かされ、不満は募るばかりだ。
「その後もきみのことが忘れられなかった。ずっと心配していた。だから再会したとき、俺の手できみを守りたいと思った」
「罪滅ぼしってわけ?」反応するまいと思っていたのに、とげとげしく訊き返していた。
「それなら家の修理でチャラになったから、もういいわよ。さあ、放して」
本当はそんなものじゃ済まないが、彼から自由になれるならなんだっていい。
「罪悪感で俺が勃つと思うか?」密着した身体に彼が腰を突き出し、訊き返してきた。
信じられないことに、彼は勃起していた。冬物の厚い生地越しに長い隆起を感じる。
静まりかけていた感情がまた荒ぶりだした。
「放しなさいよ。このケダモノ!こんなことになって、まだ私がさせると思ったら大間違いよ」
捺希はいきなり自由になった。突然のことに前につんのめり、膝をつきそうになりながら彼を振り返った。
一馬の顔から表情が消えていた。口を一文字に結び、彼女を見る目が一段と暗い。
捺希が願った通り、彼を傷つけてやった。満足はなかった。その姿に胸がギリギリと痛む。今すぐ謝りたいくらいだ。
そんな気持ちに蓋をして、顔をそむけた。写真そのものよりも、彼が裏切り者だったことがどうしても許せなかった。
「さよなら」顔も見ずに告げた。
落ちていた鞄を拾い、これが最後なのだと思った。
「送っていく」
ドアに手をかけたとき、硬い声が追いかけてきた。
「私があなたに送ってもらいたがると思う?」
「送っていく」一馬は聞く耳をもたず、頑固に繰り返した。
椅子にかけてあったダウンジャケットを引ったくり、彼女の横に並ぶ。顔がこわばっていた。
その有無を言わさぬ態度に、逆らっても無駄だと判断した。どうせあと少しの辛抱だ。
彼が開けてくれた軽に乗り込み、フロントガラスを見据える。彼を見て、失ったものの大きさを今ここで実感したくない。
隣に一馬が乗り込み、無言で夜の街を走り出した。車が小さいせいで、彼はすぐ手が届く距離にいる。車内は張り詰める緊張で窒息しそうだ。
この場を乗り切るために彼を意識から締め出そうとしたが、一馬はそう簡単に無視できる相手ではなかった。
彼の放つ不満が車内に充満している。
一馬がこんなに頑固で強引だとは思わなかった。これまではいつも機嫌よく、なにかと彼女の意見を尊重してくれていた。
それが今夜、彼女を守るためとはいえ彼が人を威嚇するのを聞き、自分の思い通りにするために押さえつけられた。いくら言ったところで聞き入れてくれなかった。
どこかで彼の本性を見破るチャンスがあったのではないかと思い返してみる。
再会した日の一馬がありありと蘇ってきた。あのときの彼は呆然としていた。見覚えはあるのに思い出せないといった感じだった。
さっきはずっと心配していたようなことを言っていたが、あの瞬間まで彼は忘れていたのではないだろうか?思い出し、社長の手前もあったので、家の修理代金を受け取らなかったのかもしれない。
そうして対等になり、一緒に働いているうちに愛情が芽生え……。
いつの間にか彼を擁護する夢想が始まったので、考えるのをやめた。
一馬を愛していた。罪は氏島のほうがずっと重いのに、一馬が憎い。それこそが彼を愛している証拠だった。
ようやくアパートが見えてきた。帰る家があるのはいいものだ。過酷な外界を遮断して、泣きたいだけ泣ける。
路頭に迷ったあの夜のことを思い出すと、今でも心細くなる。パニック寸前の恐怖が押し寄せ、いつだって家に閉じこもりたくなった。
車がアパートの前に停まるや下りようとした。これ以上、一馬といるのは限界だ。
しかし、チャイルドロックがかかっていた。
「いい加減にして」
「いいか」
腕を掴まれ、思わず振り返ってしまった。
暗くて表情はわからないが、痛いほどの視線を感じる。
「これで終わりだと思うなよ。きみのかんしゃくが治まったら、また戻ってくるからな」身勝手にも宣言した。
反論する気にもなれない。
その理不尽さに痛みも忘れて黒いシルエットを睨みつけた。
長い1分が過ぎ、ようやくロック解除の音が静寂を破った。
捺希は車から飛び出し、反発を示すようにドアを叩きつけた。追われでもしているかのように足早にアパートの門をくぐり、階段を駆けあがる。部屋の前まで来たとき、車の走り去る音がした。
張りつめていた緊張の糸が切れた。よろよろと部屋に入り、灯りを点ける。
しかし期待した安堵は訪れなかった。今朝そこで別れを惜しんだ思い出が無防備な心に爪を立て、喰らいついてきた。
もう怒りの魔法は効かなかった。捺希は上がり口に崩れ落ち、涙が流れるにまかせた。