イブの夜は更けて(R18)
□イブの夜は更けて
3ページ/8ページ
48
原村真澄を追いかけていった社長が戻ってきたのは1時間余りあとのことだった。妙にギラギラした笑顔で、突然留守にしたことを皆に詫びた。
その表情だけで感情を押し殺しているのだとわかった。
すれ違いざま肩をそっと叩かれ、原村から何か聞き出したのだと確信する。今では自分以上に事の詳細を知っているかもしれない。
捺希は今夜、社長にいろいろ訊かれるだろうと覚悟した。
まさか今日、原村真澄が現れるとは思わなかった。一馬なら想像できた。『また戻ってくる』と言われていたのだから当然だ。
それなのに原村が現れ、勝利宣言した。嘲笑し、見下された。
正直、傷ついた。なぜ騙した側である彼にあんなことを言われ、蔑まれなければならないかと腹が立った。貼りつけていた仮面にひびが入り、仕事中なのを忘れそうになったほどだ。
心配かけまいと頑張ったのに、彼のせいで全ておじゃんだ。心ならずも仕事場に再びプライベートを持ち込むはめになり、心苦しくてたまらなかった。
閉店30分前になり、燿子が早々に締めの挨拶を始めた。どうやら早く話を聞きだそうとうずうずしているようだ。
いつもと違う社長の行動に、真鍋専務が平然としているところを見ると話が通じているのだろう。
知らない間に秘密がどんどん広がっていて、捺希の憂鬱はさらに増した。
「じゃ俺、表、片づけてきますんで」寺田がそう言ってドアを出ていった。
「あ、すみません。今日の営業はもう終わったんですが……」寺田が外にいる誰かに断りを入れている。
それぞれが聞き耳を立て、片づけでざわついていた店内が静まった。表の看板の明かりはすでに落としてあるので、外の人物はよく見えない。
「いや。客じゃないんで」低くてよく通る声が答えた。
背中を震えが走った。もう見なくても誰だかわかる。この声、このしゃべり方、五十嵐一馬だ。
たちまち頭は真っ白になり、逃げることしか考えられない。バッグを胸に抱え、応接室に引っ込んだ。周りの視線を気にする余裕もなかった。
薄い壁の向こうで、手を叩く音が2度鳴り、皆の注意を引きつけた。
「私たちこの人と話があるから、みんな片づけたら帰ってね」社長がてきぱきと指示している。
ざわめきが戻り、みんなが帰り支度を再開したようだ。
姿こそ見えないが、すでに一馬は店内にいるのだろう。彼の存在をビリビリと感じる。
捺希が逃げ込んだ場所は店内の最端で、右の扉を開ければ一馬がいるであろうカウンターの向こう側。半開きになっている左の扉を出れば彼の目の前だ。他に出口はない。つまり、どん詰まり。
捺希はこの場所に逃げ込んだことを心から悔やんだ。
「あーっ!」いきなり高橋の声が上がった。「思い出した!あなた、いつか捺希さんにお礼を言いに来た人ですよね?」
店内が再びシンと静まった。
捺希も息をつめ、耳を澄ます。
いつ彼が、何のお礼を言いにわざわざ会社まで来たのか気になった。
「そうです」一馬が認めた。
声の位置からして壁のすぐ向こう、斜め向かいあたりだ。
捺希は少しでも距離を取りたくて、後ろに下がった。
「いつ?」間髪入れず訊いたのは社長だ。
「えーと……」高橋が記憶を手繰り寄せる。
「2年前の12月25日」一馬がきっぱり答えた。
たちまち心が痛みに縮み上がった。
2年前のクリスマスといえば、忘れたくても忘れられない日だ。イブに家から閉め出され、実家にも戻れず、ネットカフェでまんじりともせず25日を迎えた。心は仮死状態になり、居場所を求めて出社した。社長に家に帰るように言われたときは、頽れる寸前だった。
今、思い出しても心細さに折れそうになる。
「じゃあ、何?『別れてくれてありがとう』とでも言いに来たってわけ?」燿子が爆発寸前の勢いで噛みついた。
「違う!」一馬が大声を返す。
いまや社内は波乱含みの緊張で凍りついている。
正確にはまだあのとき別れていなかったのだが、誰もが彼女の離婚のことだと察したはずだ。
捺希はこの場から消えてしまいたかった。
「燿子」深く穏やかな声が社長を呼んだ。真鍋の声だ。
それだけで張りつめた空気が少しだけ緩んだ。
その証拠に社長は自制心を取り戻したようだ。
「そういうわけだから、とにかくみんな帰ってくれる?」今更、遅いが、社員を追い出しにかかった。
挨拶などが交わされ、ザワザワとみんなが帰っていく。
その間に半開きの左の扉から社長が入ってきて、捺希はビクッと後ずさった。
燿子がそっとドアを閉めた。
「ごめん」情けなさそうに謝ってくる。
きっと感情的に彼女のプライベートをぶちまけたことを謝っているのだろう。だけど離婚はすでにみんな知っているし、さっきの発言だけではほとんど意味不明だ。
捺希は無言で首を振った。それよりも一馬と顔を合わせたくない。
「彼と会いたくないんです」一馬に聞かれまいとヒソヒソ言った。
彼と会って、正気を保っていられる自信がなかった。面倒かけるのは心苦しいが、社長なら一馬を追い出せるはずだ。
社長が思案顔で見つめてくる。
「今日避けたって、あの男は明日もやって来るんじゃないの?」
その通りだ。あの一馬のことだ。そう簡単に引き下がるとは思えない。まるで錆びついて抜けない釘みたいだ。騙したくせに、反省するでもなくやって来る彼に腹が立つ。一馬のせいでみんなに迷惑のかけ通しだ。
「迷惑かけてすみません」肩をすぼめて謝った。
「それより」彼女の謝罪を一蹴して、燿子が言った。「片をつけなきゃ。顔を合わせるのはつらいかもしれないけど、逃げたら同じことの繰り返しになる」
1歩近づいてきて、捺希の二の腕を掴んだ。
「私たちが間に入って捺ちゃんを守るから、あいつをやっつけてやろう」社長はやる気満々だ。
その昂然とした顔を見ていたら、目がジンジンしてきた。
ただの従業員でしかない彼女のために、ひと肌もふた肌も脱ごうとするその姿に感謝で胸が熱くなる。
どうせ逃げ帰ったって、彼を思って泣くだけだ。そして明日もその繰り返しになる。それなら今踏ん張って、修羅場を乗り越えた方がいいんじゃない?
社長に触発されて、闘争心が湧いてきた。
彼女の助けを借りて、離婚のダメージから立ち直ってきた過去が走馬灯のように駆け巡る。
実家との仲は裂かれ、今もそのままだ。家から閉め出され、家を失う恐怖がトラウマになった。
それでも生きている。周りの人に支えられ、目標を定めて1歩1歩進んできた。
今回だって傷は残るだろうが、立ち直れる。その力が自分にはある。
臆病風に吹かれていた心に息吹が吹き込まれ、捺希は顎を上げた。
「わかりました。やってみます」
燿子が励ますようにうなずいた。
「じゃあ、あいつを連れてくるから、待ってて」
再び左のドアから出ていった。
一馬を呼ぶ声が聞こえる。
両手を拳に丸めて、震えを抑え込んだ。
右側のドアが開き、真鍋がガラステーブルの向こうに現れた。
そして一馬が入ってきた。専務より10センチは背が高く、気迫が凄い。電光石火のごとく捺希に標準を合わせ、跳びかからんばかりだ。
その迫力に負けまいと、捺希は脚を踏ん張った。社長が戻ってくると、少しだけ膝の震えが治まった。
気を落ち着けてよく見ると、一馬も青い顔をしている。なんだかげっそりして、ひと晩寝ていないような顔だった。
「どうぞ座って」燿子が一馬に椅子を勧めた。
さあ、役者はそろった。闘いの始まりだ。