小説B

□倒錯の向かう先は
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どうしよう、と。
そう呟く他になにもないように思えた。頭がくらりとし、足がふらつくような感覚。足下がおぼつかずに、一歩後ずさる。こまるが好きだったふわふわしたカーペットが、静かに足の裏を押し上げた。
霧が晴れていくように、少しずつ脳は状況を認識し、思考する。
誰もいないことだけが問題ではないのだ。これから帰ってくるのか、考えたくはないけれど、もし帰ってこなかったら。どこに行ったのか。無事なのか、そうでないのか。それに……。
頭が痛くなってきた。くらくらする、それに喉も乾いたような。息を一つ、吐き出してみる。震えていた。不安定に漏れる息は、まるで今の精神状態そのものみたいだった。指を眉間にあて、ぎゅっと目を閉じる。
落ち着け、苗木誠。
そう自分に言い聞かせる。まずは状況をきちんと確認するんだ。前に進むんだ。
目を開けると、さっきよりいささか落ち着いたように感じた。水が飲みたい、苗木は台所に向かうことに決めた。妹の部屋を一度ぐるりと見渡して、扉を開く。ドアノブでは、こまるの好きだったのだろうクマのストラップが、暢気にゆらゆら揺れていた。
階段を下りる。静かだった。こうして段差を一段一段踏みしめていくと、いつもの朝を思い出した。まだ覚めない目をこすってゆっくり歩くと、リビングには朝食の匂いと、「お兄ちゃん、遅いよー」なんていう妹の姿……。そのくせ自分は結構寝坊をして、ばたばたと慌てて身支度をしていた姿が頭に浮かぶ。今は一人きりのリビングを抜けて、台所へ歩を進めた。シンクは水垢ひとつなくて、やけに無機質な印象を受ける。コップ立てからひとつ透明なコップを抜いて、もう一方の空いた手で水を出した。ステンレスに水が落ちていくこの音があまり好きではなかったのに、誰もいないとよけいにうるさく感じてしまう。つい眉をひそめた。傾けたコップを落ちていく水のラインに沿わせると、さっきとは違った高い透明感のある音とともに、徐々にコップは満杯になった。ひりつく喉に水を流し込む。澄んだ水が、身体に染みていくようだった。
食器棚には皿ひとつない。フォークやスプーン、箸すらも。家具や装飾品はそのままなのに、なぜかこの家には生活感がまるでないのだ。視線を横にずらすと、棚の隣には冷蔵庫がひとつ。たしか去年、色が気に入って母が衝動買いしたものだったような……。
前のは製氷機の性能が悪くてダメだったのよ、と嬉しそうに扉を開け閉めしていた。
さっきまで漠然としか浮かんでこなかった記憶が、朧気ながらその輪郭を取り戻していく。
そうだ、そもそも『いつも通り』と感じるのだから、すべての記憶を失っている訳ではないのだ。ただ具体的ななにかが思い出せないだけで。
苗木は手首を頭にあて目をきつく閉じ、冷蔵庫の前で少し考え込む。
戸棚には何一つ残されてはいなかった。ならこの中には?さすがに水だけでは生きてはいけないだろう。もし何もなかったら。人がいなくなったのが自分の家だけだとは、とてもじゃないけど考えにくい。自分一人だけが残されたとも、同じくらい信じにくいけれど。
冷蔵庫に指をかける。くっと軽く力を込めると、わずかな音と共にゆるやかに扉は開く。中から少しの電気が苗木を照らして、それを妨げるものは何もない。空っぽだった。苗木の目が細まる。本当に、何も入ってはいない。こんなに綺麗な冷蔵庫は、店のディスプレイ以外で見たことがないというほど。ため息と共に扉を閉める。下腹部から、空腹が僅かにせりあがってくる。どうしたらいいのか、もう何も浮かばない。再び嘆息を漏らし、キッチンを後にする。ソファに身を投げるように座り込み、いつものように、テレビのスイッチを付けようと……した。
「……テレビも、付かない……」
何度電源ボタンを押しても、液晶に映像が流れる事はない。上半身をソファーに投げ出し、天井を見上げる。
……これからどうしたらいいんだろうか。茫然と頭に浮かぶのはそんな事ばかりだ。
食料もなく、テレビも映らない。水だけでは生きていけないし、暇をつぶすためのテレビすら付かない。なんとなく手のひらをかざしてみるが、その先には真っ白な天井が見えるばかりだ。どさ、と腕をおろし、長く息をついた。虚無感、脱力してただ横になっていると、そのうち眠気が緩慢に襲ってきた。それに身を任せ、重くなる瞼を閉じる。力の抜けた苗木の腕が、ソファからだらりと垂れた。

『……11037……』
「……誰?」
『……11037……』
「……誰かいるの?」
『……目を覚まして……』
「……どういうこと?」
『……目を覚まして……』
「……キミは……誰なの……!?」
『……目を、覚まして……』
……目を覚まして……、苗木クン。

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