小説B

□歩き回って黒に染まる足跡
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「……苗……クン。……起……てよ、……木クン」
遠くからぼんやりと声が聞こえて、苗木の意識は引き上げられる。目を開けると、ぼやけた視界の中央には狛枝がいた。
「……狛枝クン……?」
「そうだよ」
「……えっと、狛枝クン……?」
「そうだよ。寝ぼけてるのかな?……おはよう、苗木クン」
「……うん……おはよう……」
「だいぶ参ってるみたいだね。無理もないか……いきなりこんなことに巻き込まれて……」
「……なんて言ったの……?」
「……なんでもないよ。それより調子は大丈夫?昨日は眠れた……みたいだけど」
「うん、大丈夫。ベッドに潜ってからすぐ寝ちゃったみたいだよ」
「……疲れてただろうしね。今日歩き回れるくらいの英気は養えたかな?」
「大丈夫……だと思うよ。……今日は、案内よろしくね、狛枝クン」
「任せてよ、結構広いけど……頑張ろう」
苗木は頷いて立ち上がる。手でぼさぼさの髪を直している苗木を、狛枝はぼうっと見ていた。
「……さて、じゃあ、レストランに行ってみようか。見れば分かるよ、今までボクが何を食べて過ごしていたのか、とかね」
ドアを開きながら狛枝は言う。まるで余裕といった様子は、やはり苗木に一握りの違和感を抱かせる。それだけ長い間、ここに一人でいたということだろうか、こんな状況を普通に過ごせるほど。
そしてそこに踏み込んでいいのかも、苗木には分からない。自分に気を遣わせまいと明るく振る舞ってくれているだけかもしれない。内面では辛く苦しい感情を押し殺しているのかもしれない。
「毒とかは……入ってないんだよね?」
狛枝は楽しそうに笑った。
「ははっ、ボクが生きてるんだしそうだろうね!」
「誰が……そんなことを?」
「……さあ。随分と親切だよね。
……ま、フレキシブルにいかないと」
「……フレキシブル?」
「柔軟に、ってことだね」
「……そうなんだ……」
「大丈夫大丈夫。いざって時は慎重だからさ。……ほら、着いたよ。ここがロビー、この上がレストラン。先に上る?」
「え!?狛枝クン、先に行ってくれないの!?」
「ははっ、……そう言われると弱いね」
冗談混じりに言った狛枝の背を追って、足元を見ながら苗木も段を登り始めた。
上りきったところでいきなり銃弾が飛んでくるとか……そんなことはないだろうけど。
姿すら見せない狛枝と自分を閉じ込めた人物が、食事まで毎日用意するなんて、にわかには信じられない。第一、そんな犯人とも言うべき人が作った食事を食べていいのか。狛枝が普通に食べて過ごしているとはいえ、万一ということもあり得る。ここではすべてが現実離れしているのだし……。
芳しいにおいに思考が中断される。踊り場から部屋を覗き込むと、テーブルいっぱいの料理が二人を出迎えていた。立ち上っている湯気が、作られてからそんなに時間が経っていないことを暗に示す。
「……毎日こんな調子だよ。……さすがにそろそろ飽きてきたかな」
「……毎日……こんなのが?」
「はじめは目を疑ったよ。でも餓死するよりは食べてみて毒死するほうがいいと思ってさ」
「……でも……平気だった……」
狛枝の溜め息。
「……そう。それで3日くらい食べなかった時も、毎日違うものに取り替えられてたしね。ありがたいって言ったらそうなんだけどさ」
「食べてみる?」狛枝が問うて、苗木は恐る恐るテーブルのフォークに手を伸ばした。豪華に盛り付けられた肉料理。鮮やかな色合いのサラダ。ケチャップが添えられたスクランブルエッグ。食べきれないほどの料理がテーブルを埋め尽くしている。
ごくりと唾を飲み込んだ。目の前の料理に食欲が湧いたからではない。湧いたのは恐れだ。食事に恐怖を覚えたのは初めてだった。
もし毒が入っていたら?
「大丈夫だって。……食べてみたら慣れるもんだよ」
手慣れた様子で正面に座った狛枝が、優しく苗木に声を掛けた。
「……うん」
椅子をテーブルの下から引き出して、苗木も腰掛ける。
「……確かに最初は怖いよね……ボクもそうだったよ。じゃ、ボクが最初に食べてみようか」
苗木が言葉をはさむ隙もなく、狛枝はサラダにフォークを刺して、なんのためらいもなく口に運んだ。
もし、毒が、入っていたら。
顎の動きで咀嚼しているのが分かる。突然の驚きと不安で視線を外せない苗木をよそに、狛枝の喉は嚥下のために上下する。
「……ね?」
「……うん……」
胸を撫で下ろしていた。狛枝の大丈夫だという言葉は分かっているが、やはり不安は拭いきれなかったのだ。
「心配しないでも平気だよ、苗木クン。怯えるなっていうのも無理な話だどさ」
狛枝の言葉を受け止めて、苗木も習ってフォークをサラダの葉に押し込む。みずみずしい野菜が、彩り豊かに盛り付けられている。ざくっと軽い音を立てて、フォークがレタスに突き刺さった。小さく一口、かじってみる。適度な歯ごたえがあるシャキシャキしたレタス。苦味はなく、むしろほのかな甘味すら感じる。今まで躊躇していた自分が馬鹿みたいだと思えるほど、それは美味しかった。
「……どう?意外とちゃんとしてるでしょ」
「……うん……、美味しいよ……。警戒してた自分が馬鹿みたいに思えるぐらい」
「毒が入ってるかもって思うのが普通だよ……状況が状況だしね。でも、食べておいたほうがいいよ。こんなことを言うのもなんだけど……いつなにが起こるか分からないから」
「……うん……そうだよね」
「……。ところでさ、苗木クン。キミは、どうやってこの島に来たの?」
気がつくと狛枝は、自分を真っ直ぐに見つめていた。その真剣な面差しに、ついフォークを動かす手を止める。
「……ボクは……。いつも通りに、自分の家の自分の部屋で起きた。でも、その家にはボク以外誰もいなくなってたんだ。それと食料も……なにもなかった。テレビも映らない。それで、ずっとここにいても意味がないと思って、外に……出ようとして……。
そうだ!玄関のドアにはドアノブがなくて……代わりに数字を打ち込むモニターがあったんだ」
狛枝の眉が訝しげにひそめられる。
「……そのモニターは、元々あった訳じゃないんだよね?なんで苗木クンは、外に出られたの……?」
頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだ。
…だからこそ、言葉に出してひとつひとつ整理してみよう。ぼやけた記憶を掘り起こす。
「……その少し前に、夢に見たんだ。真っ暗な中で誰かの声だけが響いてて……『11037』って数字を繰り返し囁いてた。それで」
突如。
その声と、狛枝の声が重なった。二つの声が、頭の中で相違なくぴったりと重なった。
11037。そう言っていたのは狛枝の声?
でも初対面なはずだ……嘘?
「入れたんだよ……『11037』って。そしたら扉が開いて……白黒のクマがモニターに映って……。
外に出たら南の島だったんだ。
ねえ、狛枝クンは心当たりはない?『11037』って数字を知ってるよね……!?」
いつの間にか声は震えている。
狛枝は自分に嘘をついているのか?彼を信じられない訳じゃない。心強い仲間だとすら思っている。
だからこそ知りたい。狛枝は何を知っているのか。
「狛枝クン……」
「……知ってるよ。でも、きっとキミが期待しているような事じゃない」
「……どういうこと……?」
「……行ってみたほうが早いよ。……着いてきて」
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