小説B

□ありもしないくせに
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彼は笑いました。
それはいつも通りの優しそうな笑みで……。ええ、全くのいつも通りだったのです。ですが、彼が笑い続けるうちに……その笑い声はだんだんと狂気を帯びていって、彼の虹彩
も、瞳孔すらぐるぐると、ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるとまるで渦を巻くようにぐるぐるぐるぐると歪んでいって、ああ、ぐるぐるぐるぐる目が回ってしまいそうです。
私は乞います。
「ねえ召使いさん……鎮痛剤ちょうだい……ねえ……痛くて痛くてたまらないの……もう我慢できないんだよう……。だからさ、お願いだからさ!
痛いよ!痛いよ!痛いよ……痛くて痛くて……ねえお願いッ!痛いよう……痛いんだよう……」
彼は笑います。
「それは無理な相談だね。誰がなんと言おうと無理な相談だよ。だって無理なんだからさ」
私は呻きと同じように、ただただ口から情けない嗚咽を漏らし続けました。だって止まらないんですから。だって止められないんですから。
「痛いよう……なんで……モナカにこんな酷いことするの?まだコドモなのに……モナカはまだコドモなのに……」
こんな言葉で少しでも同情を引こうと思った私が馬鹿みたいに、彼は相変わらず笑っていました。
「だから無理なんだって。無理なものは無理なんだよ。……それとも分からない?キミはそんなに混乱してるの?……参ったな……。精神科なんてこの辺には……もうないよね」
精神科。
思わず絶句していました。
私は精神異常者なんかじゃありません。私は頭のおかしい人なんかじゃありません。
「……モナカが行くのは普通のお医者さんでしょ……?ねえ連れていってよ!痛いの……痛いのなんとかしてよ!」
彼は笑います。ずっと笑っています。私の言葉が、おかしくておかしくてたまらないみたいに。
「……あのね。キミが行くのは……間違いなく精神科だよ。小児科かもしれないけど……キミの症状はそこではなんとかならないだろうね」
彼はそこで笑い声を漏らします。
「それにさ……医者なんている訳ないんだ
よ。……だってさ……キミ達が全員殺しちゃったでしょ?患者も医者も全員殺しちゃったでしょ?」
彼はもう笑っていませんでした。
「そろそろ現実を見なよ……。キミの膝の下には何がくっついてるの?ボクに教えてよ」
彼はもう笑っていません。
彼はもう笑っていません。
冷たい視線が私を貫きます。
「なにって……モナカの足だよ!モナカの足でしょ!?ねえ痛いの……!痛いの痛いの痛いの痛いの痛いの痛いの!」
彼は相変わらず笑っていませんでした。
「参ったな……。車椅子は置いてきちゃったから今頃はガレキの中だろうし……とてもボクの手には負えないよ」
彼が私を背負ってきたくせに、なんて無責任なんでしょう。
「ああ……キミは本当にツイてないね……。そうやってしてボクを非難ばかりしていて……絶望すらできないなんてね。やっぱりキミはまだ……『二代目』にはふさわしくないのかもね。絶望の為に生きて絶望の為に死んだ彼女なら……。
ほら……想像してみなよ。彼女ならこんなときなんて言うと思う?」
ジュンコお姉ちゃんなら。
ジュンコお姉ちゃんなら。ジュンコお姉ちゃんなら。ジュンコお姉ちゃんなら。
私は考えます。ひたすらに思考を巡らせま
す。ぐるぐるとぐるぐると、まるで彼の瞳みたいにぐるぐるとぐるぐると。
ぐるぐる……と……。
「あはは……あはははは……あはッ…………うぷぷぷぷぷぷ!
こんな……こんな痛みに耐えなきゃいけないなんて……なんて絶望的なのッ!絶望的に痛いわ……絶望的に最高よ!ああ……最高の絶望だわ……痛い痛い痛いッ!素敵!絶望的に素敵だわっ!」
ジュンコお姉ちゃん。
私は一瞬だけ、まるでジュンコお姉ちゃんになれたみたいに思えました。
ええ、浅はかでしたね。とても足りない考えでした。
こんなものは『最高の絶望』なんかじゃなかったのです。
彼は分かっていたのです。
「……ふうん。『最高の絶望』ねえ……。ところでさ、キミは足が不自由なふりをしていたよね?
……どんな気分?おままごとが急に現実になるのってどんな気分?
キミには自分の足が見えるんだよね?
ガレキに敷かれて本当に動かなくなった足が……本当に見える?」
いつの間にか、彼の笑みは再起していまし
た。ですが、その手に握られている鋭利なナイフは、その笑顔とは到底結び付きません。
私は悲鳴を上げました。
私の足に、ふくらはぎに、彼がナイフを突き刺したのですから。
鎮痛剤どころの騒ぎではありません。
勢いよく降り下ろされた金属は私の肌に容赦なく埋まっていき、皮を裂き肉を抉り、遠慮なく血を吹き出させていきます。
自分の声が耳をつんざきます。
「……痛い?流れ出る血がキミには見える?ナイフがキミの足に刺さって痛いだなんて、キミは本当に思ってるの?ねえ、考えてみなよ。ほら……キミは本当に見えてる?むしろキミは……何も見えてないかもね」
荒い息が彼の言葉を幾度となく遮っていました。まるで鼓膜が急に頑丈にでもなったみたいに、もう音が遠く聞こえます。私は自分の足を引き寄せました。確かにあります。ここに私の足が確かに存在しているのです。
床を這うようにして、痛む足を引きずって、精一杯腕を伸ばして彼の足首を掴みます。これ以上ないくらいに力を込めても、彼は笑っていました。
「あははっ、キミは今血まみれになっているのかな?まだ痛い?ボクに刺された足はまだ痛い?……ねえ、ボクが刺したのって右足?左足?分からなくてさ」
歯を食い縛ります。
もう話したくありません。痛みが思考を阻害します。
痛みが思考を阻害します。
痛みが思考を阻害します。
痛みが思考を阻害します。
痛みが思考を阻害します。
「……ははっ、まあよく考えてみてよ。キミが本当に現実を直視した時……キミは、本当に『最高の絶望』に叩き落とされるはずだ
よ!
それができないなら……キミには、『二代目』になる資格なんて……ないのかもね」
私は本当に絶望が欲しいのでしょうか。
絶望が本当に欲しいのでしょうか。
だって怖いのです。怖くて怖くて怖くて怖くてたまらないのです。
絶望が欲しいのでしょうか。
救いが欲しいのでしょうか。
分かりません。

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