小説B

□ピントはやっぱり君を追う
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長かった会議から、やっと解放された。
同時に息苦しさからもサヨナラできた気がして、苗木は組んだ手を上に思いっきり伸ばす。背中が反って、関節の鳴る音がした。
空は突き抜けるように青く、晴れ晴れとしている。乾いた風が頬を掠めて、それからネクタイも揺らしていった。
最初の頃は違和感のあったこのネクタイも、今ではすっかり慣れてしまっていた。
ふと思い出して、苗木はスーツの内ポケットをまさぐる。これまた最初は取り出すのに苦労したけれど、今はすんなりとできるようになった。
習慣とか、慣れって恐ろしいものだと、改めてそう思う。
黒い手帳。癖がついていて、開こうとすると自ずと一つのページを目の前に広げてくれる。これもまた、慣れ。
苗木は視線を落として、くしゃっと顔を歪めて笑って、それから、眉を八の字に寄せた。
決別しようとしていた頃もあった。でも無理だったのだ。忘れられる訳が。
「ある訳……ないだろ……」
忘れられる訳がなかった。本当に、その通りだ。かけがえのない人、そう言い切れる自信だってある。
だから未練がましく、丸印をつけている。小さくて、でも何重にもぐるぐると。つい眺めてしまって、その数字に彼を重ねる。そして懐かしく、切なくなる度に……丸を描いて誤魔化して、期待していた。そっと指でなぞったりもした。
会えたらなんて言おう。
おめでとう?
久しぶり?
今まで何してたの?
笑おうか。
それとも少し怒り気味か。
しおらしく?
そんなシュミレーションで自分の気持ちを紛らわして。
でもきっと、本当に会えたら。
きっと顔なんてぐしゃぐしゃで、周りの目なんか気にする余裕もなくて、それで会いたかった、なんて泣きじゃくってしまうんだろう。
会いたい気持ちを噛み殺すように、わざと他人事みたいに苗木は振り返る。
本当は。
会いたくてたまらない。
どこにいるのか知りたくてたまらない。
何をしているのか知りたくてたまらない。
どうしているのか知りたくてたまらない。
好きでたまらないのだ、きっと。
大概、自覚したときには取り返しがつかない。
彼のいない空気がこんなに味気無いなんてことも。
彼のいない食事がこんなに無味乾燥としているなんてことも。
彼のいない生活がこんなに淡々としているなんてことも。
彼のいない自分がこんなにつまらなかったなんてことも。
……もう、手遅れなのだろう。
あと一週間。一週間だ。今年は一人で、ささやかに祝うのだろう。写真でも見ながら、一人で過ごすのだろう。
記憶の中では二人だった。たしかに彼はここにいた、はずなのに。
苗木は自嘲気味に笑う。静かに息をついて、手帳を閉じた。何回も開いたせいでページの端は捲れ、まるでささくれ立っているみたいに見える。
彼の言い方を借りるとすれば。
彼だって確かに苗木の希望で、それならば彼は生きなきゃいけないはずだった。
けれど……死んだなんて思っていない。諦めは確かにある。けれど認めたくないのだ。認めたくないという願望が、心の根底から動かない。
ここまで考えて苗木は、『死んだ』とか『死体』とか、『殺す』とか。そんな単語に慣れてしまった自分に気付いた。
こんな風に慣れてしまうのか。
狛枝のいない日々に慣れてしまうのか。
ひっそりと狛枝を思う日々に慣れてしまうのか。
苗木は内側から込み上げてくる激情を、唇を噛んで必死に飲み込んでいた。
今にも嗚咽が漏れそうで、今にも彼の
名前を叫んでしまいそうだった。
そよ風が苗木の唇を撫でる。その風が、苗木の唇を震わせた。
「……狛枝クン」
密やかに彼を呼ぶ。
「……っ、狛枝クン!」
彼の名を叫ぶ。
「狛枝クン、狛枝クン、狛枝クン……っ!」
いくら呼んでも呼び足りない。
呼ぶことはできても、呼ばれることは。
不意に想像してしまって、苗木は視界が歪んでいくのを感じていた。
頬を伝う涙。それはお構い無しに重力に従って。
「……しょっぱい」
前は、狛枝が苗木の涙を拭った。
『……泣かないでよ』
彼の優しげな声が嬉しくて、ちょっとぶっきらぼうな言い草とは反対に、優しくいたわるみたいな触れ方が嬉しくて、あたたかくて、そっと涙の跡をなぞった彼の手がただただ嬉しかった。
『……苗木クン』
そう呼ばれるのが何より好きだった。どんな美辞麗句もその、ありのままの一言には敵わないのだ。
「狛枝クン……」
その余韻を確かめるように、繰り返す。
「……狛枝クン」
この響きに、キミが答えてくれる日が来ますように。

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