小説B

□絶望の果て
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背筋が急に冷えていく。最後、その言葉は。
理解してはいけないと、脳裏で本能が警鐘を鳴らしていた。
……最後?
狛枝クンは。
「……ほら、見なよ!穴があいちゃいそうなくらいじっと見なよ!」
絶望しなよ。その一言が言外に付け加えられる。
江ノ島が、天井を仰ぎ大きく手を広げる。
裁判場の電気が、一つ残らず消えた。逆光で浮かぶ、彼女の輪郭。
暗転。
訪れる暗闇。
そのなかで、四角い光が灯った。
モニター、そこに写し出されたのは。画面の明かりが、苗木の瞳孔に濁った光を宿らせた。
ザザ、と時折ノイズが走る。
ここは……倉庫。
薄暗く、視界が悪い。画面が上へと動いていく。靴が見えた。狛枝のだ、と気付く。そこからは床に平行に、足首が伸びている。倒れているのか、その思考が遅れてやってくる。
見たくない。
そう思っているはずなのに。目線を逸らせない。苗木の目は尚も釘付けになっていた。次に見えたのは、ズボンの裾。だぼついたあの、狛枝の。
真っ暗な裁判場で唖然とする苗木を、モニターの微かな光が照らす。揺れている瞳が、際立って見えた。
そこから、アングルはまだ上昇を続ける。
やめろ。
叫びたい。空気がただ漏れた。
きっともう分かっている。分かってしまっている。
この先に待ち受けている光景を。
それを裏付けるように、上へと動く画面の端に赤黒いなにかが見えた。
「……う……」
見てはいけない。
いや、見なくてはいけない。
ジレンマが苗木を襲い、逃がさない。苗木はただ立ち尽くすしかなかった。
それでもまだ、モニターは映す。その赤の中心へと移動を続けた。徐々に露になる狛枝のシャツ、ジャケット。床に落ちた左手、手袋。その全てが赤い。床の赤に浸されている。そこからじわりと、それは広がる。
飛び散ったような跡で床を染めているそれ。近くの、モノクマの人形をグロテスクに染めているそれ。真っ赤な、それ。
それは……血だ。
苗木は咄嗟に両手で口元を押さえた。きつく、固く。手のひらを押し付けるように。
脳がそれを認識した瞬間に、苗木は喉の奥から込み上げる何かを感じた。
意味が分からない。いや、分かっているはずだ。きっと苗木にはもう分かっている。「うああああああああああああああッ!」それは嗚咽か、それとも叫びか。
固く閉ざした指の隙間から、それでも声は漏れ続ける。声がかすれ喉が痛み、それでも衝動は突き上げる。肩を荒く上下させ息をしていた。それなのに、苦しい。苦しい。とにかく苦しかった。鼓動が全身に響いているみたいだった。脳が、指先が、脈打っているみたいだった。それなのに意識は弛緩して、全身が波打つ。頭を内側から叩かれている。ここから出せ、そんな風になにかが内側から。
苗木は床に崩れた。そのまま手で体を引きずるように、後ずさる。涙が浮かぶ。心が急に空っぽになる。足元から世界が崩れ、空がまるごと落ちてくるみたいな。
狛枝クン、と呟いたつもりだった。彼を確かめるようにそう言ったはずだった。ただ口が動いただけで、それは自分の鼓膜さえ揺らしはしなかった。
ただ息の抜ける音。そんなものじゃ証明なんてできはしない。今モニターでは、狛枝の髪が唯一の白だ。ただ一つだけ浸食されていない、白。その瞳は苦しげに見開かれている。なのに眉は、なにかを決心したようにまっすぐだ。
もう見せないでくれ。
苗木はそれなのに動けない。その思いは心にきつく食い込んでいるのに、逆にそれが苗木の手足を絡めているようだった。
世界はいま静寂に包まれていた。荒々しい呼吸音だけが響き、このまま全てが終わってしまいそうだとすら思えた、のに。その時。
甲高い声がそれを引き裂いた。
いっそのこと終わってしまいさえすればよかった。江ノ島の笑い声が響く。
もう何もしたくなかった。何も見たくなかったし何も聞きたくなかったし何も考えたくなかった。ただ全てを忘れ、生ぬるい過去に浸っていたかった。でも。そんな懐古は彼女がすべてぶち壊す。
「ねえどうよ苗木!絶望したでしょ!まだ記憶が戻りきってないアンタでもさあ、分かるでしょ!だって二回目だもんねー!狛枝がこうやって死ぬのを見るの、二回目だもんね!
ねえ絶望した?絶望的でしょ?こんなの……絶望的でしょ?
絶望したでしょ!アタシがアンタを絶望させたのよね?苗木、ねえそうなのよね!」
二回目。まだ呆然としている中で、その言葉だけがやっと心に刺さった。二回目?そんなの見た覚えがない。もし見ていたとしたら。忘れる訳がない。
それなのに、小さなガラスの欠片を踏んづけたみたいにちくちくと痛む。もう歩きたくない。その度に刺さるから。進みたくない。その度に痛むから。けれど後ろから、江ノ島が突き飛ばす。
目の前のモニターに映ったのは、彼の腹に突き刺さった槍だった。
目の前の彼が、緑のコートとだぶる。拘束された四肢。言葉を封じるガムテープ。その向こうには喘ぐように開いた口がある。目は虚ろ、腹に刺さった、槍。
見たことが……ある?
耳の奥でなにかがこだまする。つい瞼をぎゅっと閉じた。
霧切の叫びと、十神の制止だった。
落ち着いて、そう叫ぶ霧切。
見るな、腕を横に伸ばして進路を遮る十神。
視界の半分を隠す十神の黒いスーツの向こうから、覗くモニター。そこには、真っ赤な世界。そこに広がる緑、白。その中心に突き刺さっていたのは。
この槍だ。
……未来機関。
……修学旅行?
……狛枝クンが、しんだとき。
「あ、思い出した!?思い出した!?そう!あの修学旅行よ!狛枝が死んだのは、あの修学旅行の時でしたー!アンタが初めて狛枝を殺したのは、その時でしたー!」
座り込む苗木を見下ろしながら、江ノ島は楽しそうに叫んだ。
「ボクが……殺した……?」
そんなことない、そう思っているのに。苗木は揺らいだ。
江ノ島は畳み掛けるように、平然と。
「え?だってそうでしょ?アンタがアイツラを修学旅行に参加させたんだから、アンタが殺したようなものでしょう?」
「……違うッ!ボクは……ボクは彼を殺してなんかいない!」
「助けるためだったとかなんとか、そんなんどーでもいいよ。
結果的にアイツは死んで脳死になったんじゃん。アンタのせいでしょ?」
苗木が混乱するのもこうして追い込まれるのも、彼女にとってはまるで普通のことみたいだった。さっきまであんなに響かせていた笑い声は、今はどこにも見当たらない。
「お前があのプログラムを滅茶苦茶にしたんだ……!お前があんな風にしなかったら……彼はあんなことになったりしなかった……!」
肩をすくめ首を横にゆっくりと振り、江ノ島は笑った。けれど笑い声は響かない。嘲るような、口角の片側だけを上げる笑みだった。
「アタシのせいなの?だから、アタシは軽く背中を押しただけなんだって。
閉じ込められたからって人を殺したのも殺そうとしたのも所詮はアイツラ。人を殺す覚悟を持って実行に移したのもアイツラ!ねえ、全部アタシのせいなの?」
狂気で満ちた瞳が、見つめてくる。
それを正面から見返すことなんてできなかった。
「ねえ、本当にアタシだけのせい?アンタのせいでも……あるわよね?そうだよね、苗木?直接の原因を作ったのはアンタ。その上で間接的に背中を押したのがアタシ。……あはっ、産みの親と育ての親みたーい!」
「……ボクの……せい?」
苗木は動けなかった。じわじわと、しかし確実に。江ノ島に追い込まれている。
狛枝クンを殺したのは……ボク?
ボクのせい?
ボクのせいで狛枝クンは……死んだ?
「……そう。アンタのせいだよ。アンタのせいで狛枝は死んだ。狛枝を殺したのはアンタ」
冷たい声。無機質なそれが、苗木に浴びせられた。
ボクのせいで狛枝クンが。苗木は心の中で呟く。その途端にそれが、真実みたいに思えてきて。苗木は自らを抱き締めた。
「……ボクの……せいで……」
「……でも、仕方ないんじゃない?……それを認めて、前に進む。違う、苗木?」
優しい声色に江ノ島を見る。彼女は微笑んでいた。
……彼女は、ゆるしている。
「……認める……?」
「そ。認めないと……前に進めないでしょ?」
言い終えて、綺麗な弧を描く唇。
彼女は、ボクをゆるしている。
……彼女だけが。
「アンタは……何をしたの?」
……ボクは。
「……彼を……ころした……?」
「彼って誰?」
彼。あの笑みと、自分を卑下する言葉が浮かぶ。それの主は、もちろん。
「狛……枝……クン?」
覚えず、苗木は目を見開いていた。
その空気の向こうの彼を探して。
「じゃあ、アンタは誰を殺したの?」
「ボクは……」
子音が、鼓膜を打った。
空白。
「狛枝クンを……殺した」
自らの声が耳に飛び込んでくる。
言葉にした瞬間、それが意思を持ったかのように苗木を襲った。それは足元にぽっかり広がる穴になり、それから首を吊る糸になった。
……絶望。
ボクが狛枝クンを殺した?ボクが狛枝クンを殺した?ボクが狛枝クンを殺した?
苗木の瞳から涙が落ちた。痛々しく開かれた目、そこから流れる涙。
ボクが狛枝クンを殺した。
四つん這いになるように苗木は地面を拳で叩く。痛む手なんて気にならなかった。自分が何をしているかなんて分からないまま、苗木は悲鳴を上げる心を聞いていた。
江ノ島は自らの笑い声を聞いている。
苗木を絶望させたのはアタシだ!
きっかけを作ったのは自分ではないかもしれない。けれど終止符を打ったのは紛れもなく、自分だ。
狂喜のままに、歓声にも似た笑い声を上げる。
これでアタシはやっと、アタシになれる。
「苗木をちゃんと絶望させた今なら……アタシはアタシの定義を満たした!アタシは……ちゃんと江ノ島循子になれるんだわっ!」
江ノ島もまた、自らを抱いていた。恍惚と悦に入っている。「こんなの……絶望的に希望だわっ!アタシが希望を抱くなんて……絶望的!初めての絶望よっ!死だけが最後の絶望じゃなかった!これが……アタシの最後の絶望よ!」
江ノ島は荒く息を吐く。喉がひりひりと痛んだ、口角の筋肉が引きつっている、それでも江ノ島は笑った。
「……それは違うよ」
この声が、鋭く空気を裂くまでは。

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