小説B

□すり抜ける白に思いを馳せて
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サルは未だ、フェイの行方を掴めずにいた。窓を打つ雨音を、サルは聞き流す。
退屈なベッドの上、一日を寝て過ごす毎日。そんな日々も、彼がいたなら。
それなら、少しはいいほうに変わっただろうか。
……フェイはどこだ。
頭の中でそう呟いてみる。
かつてなら電流が弾けるみたいに、簡単に捉えることができたのに。
「……人間、かあ……」
不便なようで、未知の興味。開けた未来に、抱かざるをえない期待。そこにはフェイがいるはずだった。誰よりも先に、自分を待っているはずだった。
それなのに一度も、顔を合わせていない。あの試合が終わって、ちゃんと……『友だち』になったはずだったのに。なれたと思った、それなのに。
昨夜から降りつづく雨が、しとしとと鬱屈な気分を増大させていた。
かつては、晴天なんて好きではなかったけれど。晴ればれとした空気が嫌いだったから。それなら、雨のほうがまだ好きだった。
けれど今は違うらしい。四角く切り取られた空を一日中眺めるなら。
どうせだったら青がいい。
ベッドの傍らにはゴミ箱がある。何も入っていない。その横には、傘が横たわっていた。少しすりきれた、ぐちゃぐちゃのビニール傘。
「……ちょうどいい」
サルは上半身を乗り出して、それを拾い上げる。それを杖のように床について、立ち上がった。
長時間でなければ、敷地内の出歩きは許されている。
病室のドアを横に開く。廊下は静かで、誰もいなかった。エレベーターでも誰とも乗り合わせない。異様なまでにひっそりとしている、そんな風に感じられた。
やはり、というべきか、誰もいないロビーを抜ける。開く自動ドアを横目に、サルは病院の庭へと進んだ。傘を差すと、ビニルが張る、ばさ、という音がした。
紫陽花が雨粒に打たれている。その衝撃で首を揺らす藍色。雨を弾いては地に落とす緑の葉。時折そこに這うカタツムリ。湿気が多くて、どうにも嫌になる。傘に雨が落ちる音。水溜まりに雨が落ちる音。揺れた葉が擦れる音。目を瞑り耳を澄ますと、たくさんの音がサルの耳朶を打つ。
……気配がした。
すぐに瞼を上げることはしない。足音。静かな足運びには覚えがあった。きっかり五秒、それだけ待ってサルは目を開けた。
「……やあ。会いたかったよ、フェイ」
鮮やかな緑が、視界を彩った。彼は、うつむく。
「……僕もだよ、サル」
傘を打つ雨音が鳴り続く。彼は濡れていた。雨粒が彼の額を滑って、頬を伝う。睫毛に雨が溜まって、まるで涙みたいだ。
「……フェイ、君は」言いかけてフェイが遮った。「言わないで」
「フェイ」フェイは視線を逸らす。「……サル」
今度こそ分かる。彼は泣いているのだ。何故。普通の『友だち』になれると期待していたのに、何故。
何も悲しいことなんてないはずだった。
「フェイ」彼は答えない。「……ごめん」代わりに謝罪が飛んできた。
「ごめん、ごめん……サル」
歩み寄ろうと半歩踏み出し、フェイが身を引いた。
「……来ないで」震えている。
「フェイ」それでもサルは歩みを止めない。
「来ないで!」
見えない壁に弾かれた。傘を落とす。透明で、けれども強固な壁。「……フェイ、これって」
今度はサルの声が震えた。初めて顔に雫が落ちた。足が動かない。金縛りみたいにその場から動けなかった。彼は怯えるみたいにこっちを見ている。ようやく、視線が合った。
「……ごめん」
彼はそう言いながら、ゆっくりと振り返る。目の前を塞ぐ壁を叩く。
「フェイ!」
少しだけ、彼の横顔が揺らいだ。横に垂れた髪が跳ねる。目の前を掠めた雨が、彼をぼやけさせた。「さよなら」
「……フェイ!」
彼が背を向ける。同時に壁が消えた。それはあっけなく、急に支えをなくして、つんのめりそうになる。地面が迫る。その勢いのまま、半ば転ぶみたいに前に進んだ。
手を伸ばす。もう少しで手が届く。あと五センチ。あと四センチ。あと――。
……その背が、急に遠退いた。
彼は空中、頭上にいた。伸ばしていた手のひらの向こうに隠れるくらいに、もう小さい。
跳び跳ねた彼の輪郭は、あっという間に病棟を越した。そこには空だけが残っている。かざしていた手を、ぎゅっと握った。それを開いて中を見る。
何もない。
彼は……まだ力を失っていなかった。
「……なんで……?」
未だ声は震える。
……だって、それじゃ。
その後に続く考えを、サルは振り払う。思い浮かべたら実現しそうな気がしたから。
「……フェイ」
もう誰も答えない。雨音だけが呼応するように、その強さを増した。風でなびいた雨が、その向きを変える。落ちた傘も、ゆっくりと揺れた。
……今度は、絶対に……捕まえる。
『さよなら』彼の声が頭をよぎった。
手のひらを見つめる。ただちっぽけな、子どもの手のひらだ。
それでも、きっと。彼の手を掴むには、これくらいがちょうどいい。
傘の内側には雨水が溜まっている。雨が落ちるたびに立つ水紋。いくつもの円が、そこで広がっては消えていた。
そこに紫陽花が、ひとひらの藍を落とした。
「……フェイ」
返事なんて返ってこない。けれども確かに、サルの記憶の中にフェイはいた。

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