小説A

□おはようと言ってなにも言葉は返ってこなかった
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ぐちゃぐちゃになっているユニフォーム、スパイク。ただしそれは第三者の手によって意図的にされた物ではなく、すみません転んでやっちゃいました、で済むような、そんなぎりぎりのところでとどまっているような汚れ具合で。実に巧妙な手口だ、と狩屋は思った。人間もう慣れてしまうと何も感じないものだ。まるでクソつまらないドラマでも見ているかのように無感情に、無関心に、目の前の光景を処理することができる。
やめろよ洗濯すんの俺なんだからさあ。お前らみたいに親におんぶにだっこできるような甘い環境じゃねえんだよ。
いや、何も感じていない訳ではなかった。少なくともいささか冷静さには欠いていた。初めてこういった事をされた時よりは。

始まりは二ヶ月前、別段サッカー部が強い訳でもなかった狩屋の通う高校では、中学でみっちり基礎を鍛えてきた狩屋にとっては弱い、とにかく弱かった。いきなり三年のキャプテンを抜くような新入生、それに加えて少し生意気。
あいつ調子乗ってるよな、そうそう、ちょっとぐらい上手いからってさ。
わざと耳に入るようにそう囁かれ、その方向を見れば、わざとらしくにやついていて。
ちょっとぐらい上手いって認めてんだろ、誉めてくれてありがとうございます。
心中でそう囁けるくらいには、まだあの頃は余裕があった。中学であのクソがつくほど真っ直ぐなばか正直なキャプテンにほだされて、いつしか狩屋は仮面を被るのが億劫になっていた。照れ隠しも含めてうるせえよ、だとか思ってすらいたのに。それはなかなか幸せなことだったのだと狩屋は気付いた。
一センチ距離が変われば生意気。
一メートル距離が変われば疎まれ、蔑まれ。
自分のパーソナルスペースに易々と入り込んでくるほうが稀有な存在だった。もう罵倒されるのは慣れた、そう思っていた中学時代に、慣れない仲間なんてものに慣れてしまった。
だからもう、罵倒されるのは慣れた、なんてことは言えないのに。それを認めない自分を、狩屋は認めてしまった。
今日は髪を引っ張られた。何気なく腹を殴られた。蹴られた。
全部、全部子供じみていて話だけ聞いたら笑えるようなそんなもので、とくに大した怪我をさせられた訳ではないのに。今までなら自分を嘲笑くらいできた。今もできるだろうと思っていた、のに。
ぼろぼろのユニフォームとスパイクを見て、助けてくれる人も手を差しのべてくれる人も怒ってくれる人も悲しんでくれる人もいなくて、こみ上げてきたのは笑いではなく涙だった。

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