小説A

□鈍痛
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真っ白だった。
家具も、壁も、床も。すべてが純白だった。無機質な印象を強く与える。そのなかにひとつだけ、黒があった。すすけた黒。乱れた髪、癖がある黒髪だった。身に付けている衣服すら白く、その肌さえも白かった。
扉がどこにあるのか、それさえもわからないようなこの部屋で、A弥はただ仰向けになっていた。ぴくりとも動かない。呼吸に伴って上下する胸と瞬きだけが、A弥が生きていることを確認する手段だった。
A弥の瞼の裏には、あの日の出来事が写し出されている。あの、真夏日。暑い暑い半年前の日。
A弥はいつも通り、制服を着て登校していた。アスファルトはじりじりと焼けるような音を発する。それが余計に暑さを感じさせた。汗が一筋、頬を伝って落ちる。それは路面に小さな染みを作ったが、A弥が次の一歩を踏み出す前に消えてしまった。ブレザーの袖で額を拭う。そこだけ軽く湿った。とはいえこの暑さではすぐに乾いてしまうだろう。まったく嫌になる、とA弥は浅く息を吐いた。憂うつな気分になりながらまた交互に足を前へと運び地面へ付ける。それを数えきれぬほど繰り返したところで、アスファルトの舗装に引かれているラインが歪んだ。電柱が弧をえがく。また一粒、A弥の頬を伝って汗が落ちた。だがそれが地面へ落下するより速く、A弥は灼熱のアスファルトへとその身を委ねていた。じゅっと音を立てて、やっと地面へ広がった汗が蒸発した。
そこからだった。
目が覚めると寝汗でびっしょりだった。悪い夢を見ていたような気がするが、はっきりとは覚えてはいなかった。寝汗が夢のせいなのか真夏の暑さのせいなのかは分からない。制服のワイシャツが肌にべっとりと張り付いて気持ちが悪かった。自分が寝ていたシーツは湿っている。ベッドはカーテンで囲まれている。ほのかに漂う消毒の匂い。どうやらここは保健室らしかった。登校途中で倒れた事はおぼろげに記憶に残っている。そのせいか、かかっている布団がやたらと重く感じた。とりあえず横たえている身を起こす。かけ布団が擦れるわずかな音がした。ベッドの足下に上履きが並べて置いてあった。それを引っかけて、立ち上がる。ベッドを囲んでいるカーテンを押し退けた。
痛みが走った。
ほんの少しカーテンが触れただけなのに、まるでヤスリでその部分をこすられたかのような感覚。思わず自分の腕を見やったが、なんらおかしくはなかった。皮が矧げている訳でも、ひしゃげている訳でも、肉が削げている訳でも無かった。試しに右腕を、左手でそっと触れてみる。耐えられないほどの痛みが襲った。思わず床に倒れこむ。保健室の椅子を支えにしたが、崩れた。ガタンとけたたましい音がした。倒れた椅子の座面がくるくると回って、止まった。
急にドアが開いた。茶色の猫毛が視界の隅に映る。A弥、A弥と呼ぶ声がする。肩を掴まれる。痛い。悲鳴をあげる。なんでこんなにも痛むのか自分でも分からない。だからC太にも分かるはずなかった。肩に食い込んだC太の指から針が貫通しているみたいだ。痛い。
「触らないで……っ!痛い……!!僕に触らないで……!」
歯を食い縛る。ぱっとC太の手が離れた。驚いている。それにひどく傷ついているように見えた。歪んだ瞳と眉は、ひょっとしたら自分よりも痛いかもしれないと思った。でも未だ肩はじくじくと痛む。C太が手を離して、少しだけほっとしている自分もいた。
「……ごめん」
半分掠れた震えた声で呟いたのはC太だった。ごめん、とA弥も言う。もう言葉は生まれなかった。ただ沈黙していた。
静寂の中、扉が開く音がした。目を開ける。真っ白な中に、黒が二つ生まれた。その二つの黒で、A弥はC太を見つめる。C太はもうA弥に触れることはない。ただ見つめるだけだった。A弥はゆっくりと横たえた身を起こす。裸足でひたひたと歩いていく。かすかな痛みが走った。それでもC太の真っ正面まで歩を進めた。A弥が少しだけ見上げる形で、二人は向き合う。
「……おはよう」
そう告げたのはC太だった。A弥もおはよう、と呟く。
言葉は皮膚に刺さることはない。いっそのこと痛くてもいいから抱き締めて欲しかった。歯を食い縛って、抱擁の激痛に耐える。それがとても甘美なことに思えた。
触るなと言ったのは自分なのに。
七時を告げるアラームが響いた。少しだけそれを見やって、C太はスイッチへと手を伸ばした。カチリ、と乾いた音が飽和していた。言葉がその部屋に溶けることは無かった。

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