小説A

□早朝
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ふわりと香るいつもの匂いで目が覚めた。ただそれはいつもよりも近く、鮮明に。目の前に広がる皺になってはだけたワイシャツ。なぜだか唐突に触れたくなって、その間からのぞく胸板に指を伸ばした。そのままちらりと顔を伺った。長い睫毛。すやすやとたてる寝息。閉じた目にかかる柔らかそうな茶色い猫毛。
それらをしばらく見つめてから、横たわる体にそっと身を寄せた。寝息を額に感じる。腰に手を回した。さっきよりも近くに温度を感じた。C太の胸に額を押し付ける。このまま目覚めなければいい、と思った。なんてことはない普通の時間が、このまま続けばいいと思った。
最近夢を見る。C太に向かってカッターを振りかざしてそして降り下ろす夢。C太を殺してしまう夢。抵抗されても僕はそれを止めず、C太が息絶えるまで半狂乱で。目覚めると寝汗でびっしょりで、時には涙さえも瞳からこぼれる。
C太が寝返りを打とうと身じろぎをする。このままくっついていては邪魔だろうと、ぱっと離れた。正座を軽く崩して座っている状態になる。そこから見下ろしたC太は、息絶えているようだった。投げ出された両腕。力の入っていないその肢体。動悸がする。自分は返り血など浴びてはいないしカッターなど手にしてもいないというのに。
思わずC太を揺すり起こしそうになった。自分の思い込みにしか過ぎないのに眠りを妨げてはいけないと何かが告げる。もう一方で、構わない起こしてしまえ、と何かが叫ぶ。生きている、C太は生きている。殺していない。生きている生きている生きている、だって殺していないから。
C太が生きていることが重要なのか、自分が殺していないことが重要なのか、わからない。
不意にC太の声がした。
「……A弥……?」
これは、C太の声だ。紛れもなく、C太の声だ。
「C太……僕、C太を……っ」
A弥はそのままの姿勢から後ずさった。壁に肩を凭れさせる。震える手をデスクに乗せる。肘に力が入らず、がたんと崩れ落ちて、その上のコップをなぎはらった。からんからんと硬い音がして、落ちた。ああ、血まみれだ。皮膚は裂け肉は抉れ爪は剥がれている。僕がやった。僕がやったんだ。……C太の、その手を伸ばさないで。思わず自分の手で顔を覆った。なのにその手も、真っ赤だ。これは、自分の血ではない。どこも痛くない。ならこれは、C太の。何故。返り血だ。やっぱり僕がC太を。
『みーつけた』
突如頭をかち割らんばかりに声が響く。C太の声が、響く。そのとき、僕はまるでC太だった。皮膚は裂かれ肉は抉られ爪は剥がれていた。気が狂いそうだ。叫び出しそうだ。あるいはもう狂っているのかもしれない。叫んでいるのかもしれない。C太がカッターを振り下ろす。血が、ついている。誰の?僕のだ。赤い刃が迫って、そして。
消えた。
目の前にはC太の顔だけがあった。心配そうに僕の顔を眺めていた。だいぶ息は荒かった。肩がせわしなく上下する。
「……大丈夫?A弥」
まだ思考が追い付かない。うん、と答えるのでいっぱいいっぱいで、C太の顔を見るのも怖くてただ頷いた。
「……大丈夫だよ、A弥」
そう言って、C太はいつも僕が落ち着くまで軽く背をたたき、頭を撫でてくれる。いきなりおかしくなった僕に疑問を抱えているだろうに、まるでそんなこと全然気にしていないかのように、ゆっくりと。歯がかちかちと鳴る。肩は小刻みに震えた。そっと寄り添ってくれたC太に情けなく甘えるように、実際甘えながら、僕はC太に身を寄せた。
どこからか視線を感じた気がした。だけどそれを遮るように、どこから見られているのか知っているかのように、C太は少し背を向ける方向を変えた。

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