小説A

□絶望へとサヨウナラ
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カプセルへと沈んでいく狛枝の肢体をじっと眺めてから、苗木はそっとその瞼をおろした。目を閉じても、その瞼の裏にはしっかりと狛枝の姿が刻みこまれている。
柔らかい髪も、困ったような笑い方も、吐息混じりの囁くような声も。
一時すら忘れることはない。
もう一度、触れられたらどれだけ。
弱々しく伸ばした手を拒絶するように、空気が動く音を僅かに響かせながらカプセルはガラスで閉じた。
もう、会えないのだろうか。苗木くん、と自分を呼ぶ声も聴けないのだろうか。
なのに以前彼に触れられた頬が、少しだけうずいた。左手で滑るように撫でられた頬。赤い爪の先が微かに触れた頬。ぞくりと、寒気がした。
彼の瞼は開くことはない。さっき自分で注射した麻酔薬のせいだというのに、もう一生狛枝が目覚めないような気さえしていた。
絶望、という言葉が当てはまるのだうか。ならば今の彼が自分だったなら、それすら歓喜へと変じうるのか。
苗木は眉間に指をあてたまま、ゆっくりと首を左右に振った。うつむいていた頭を持ち上げる。カプセルの中は霞がかかっているかのように真っ白で、もう狛枝の姿を見ることはできなかった。
さようなら。
そう心の中で別れを告げる。それと一緒に唇も震えていたことに、苗木は気付いていなかった。
再会を願う言葉ではない。
心を閉ざし、決別するための。彼が無事に卒業するための。彼が自分のことをちゃんと忘れられるための。
もうきっと目覚めることはないだろう。目が覚めた時にはもう、彼は今の狛枝ではなくなっているだろう。
同じ顔で、同じ声で、同じ仕草で、それでも次に会ったときには初めまして、と言われるのだろう。おはようと声をかけることすら叶わないだろう。
「……もういいのか」
弾かれたように声のほうへ顔を上げる。昔から変わらない御曹司がそこにいた。指で眼鏡のフレームを直して、苗木を見つめている。
頷く。
「……駄目と言えるはずが無いしね」
苗木の眉が歪む。
十神は苗木へと背を向けた。お前が今にも泣き出しそうな顔をしているからだと、言える訳がなかった。
「……まあ、お前の心情など知ったことではない。いずれにせよもう始まる……」
もう一度カプセルへと向き直る。十神は霧切のほうへ足を運んでいったようだった。周囲に人がいないことを確認して、カプセル上部に取り付けられているパネルを操作する。見た目はなんら変わりないのに、苗木の手は易々とカプセルを封じているガラスをすり抜けた。手を握る。信じられないほど冷たかった。ぎゅっと目を閉じる。今昏睡中の狛枝の脳内には、苗木の手を通じて動画データが送り込まれているはずだ。陳腐かも知れないけれど、大好きだと、それだけを伝えるための。
ただそれは仮想世界で目覚めた時には消去されている。そしてその時彼は自分のことすら忘れているというのに、と、さらに瞼をきつく閉じながら苗木はデータを送り続ける。
やがて全てが終わったのか、おもむろに苗木は手を離す。ガラスから手を引き抜く。目の前の透明な壁は、もうどう足掻いても狛枝と苗木を結ぶことはなかった。
さようなら、狛枝凪斗くん。
今なら、彼が絶望のままでいてもいいと、そう思えた。

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