小説A

□おいでよ、どこまでも
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苗木さん、と呼ぶ声がする。振り向いた。ぱたぱたと走り寄ってくるのは、狛枝。病衣のままこちらに駆け寄ってきて、腕の包帯がたなびく。
「なにか用、狛枝クン?」
「苗木さんが見えたから、つい……」
はにかむ狛枝に、苗木も笑みをこぼした。こうしていると、信じられないのに。超高校級の絶望、そう霧切に告げられた言葉が頭をよぎった。
それでもいい。絶望だというのならそれでも。落ちるだけ落ちればもう落ちることはない。一人には、しない。
「だからってそんなに焦らなくてもいいのに……」
また狛枝は笑う。はしゃぐような笑いから、それはだんだんと狂気を帯びて。廊下に反響する。
「あはは、おかしな事言うね、苗木さん……ボクなんかがいつまでも苗木さんの側にいられる訳がないのに!最低で最悪で愚かで劣悪で、何をやっても駄目なボクなんかが!どうせすぐ頭がおかしい人たちが集められるところに送還されるに決まってる……!そうでしょ苗木さん、そうだよね……!……あっはは、ボクなんかがこんなところにいられるだけでも過ぎた幸運だったんだ……あはは!あはははは!あはははは……あははははは!」
鎮痛剤、と苗木が吠えた。いまだ笑い続ける狛枝が、ぺたりとへたり込む。首の座っていない赤子のようにかくりと頭をかしげ、笑い続けていた。
「絶望病……また……!狛枝クン……狛枝クン!!負けちゃだめだ!……っ狛枝クン!」
廊下を走る軽い靴音が聞こえた。霧切だった。
「苗木くん!」
その手には鎮痛剤が握られていた。慌てて受け取って、病衣の袖を捲った。注射器の針をあてがう。震えていた。なかなか狙いが定まらず、痺れを切らした霧切がそれをひったくり注射した。笑い声が、徐々に失速していく。やがて呼吸がつまったように途切れた。目が見開かれた。上がり切っていた口角が、わずかに下がった。
「……苗木、さん……」
ジャケットの襟をつかまれた。
「狛枝クン!大丈夫!?」
「ボク……また……。やっぱり最低だ……ボクなんていないほうがいいんだ……」
怯えている。狛枝は今怯えているのか。誰に、自分に。
「それは、それは違うよ……!……狛枝クン、君は必要だよ……!ボクを、信じて」
もう片方の手がおもむろに伸びてきて、反対の襟もつかまれる。震えていた。狛枝は苗木のパーカーに顔をうずめた。より近く、震えが伝わってくる。背中をゆっくりとさすった。絶望、なぜそうなってしまったのか。彼のせいではないのに。決して狛枝のせいではないのに。江ノ島の声が、一瞬頭に響いた。
「……狛枝クン、一度部屋に戻ろう。一緒に行くよ」
今の狛枝に、病室という言葉を使うのは良くないと思った。一緒にいてくれる誰かが必要だと思った。それには自分が適任だと、そうだといいと思った。頭を撫でるように手を置く。狛枝が苗木を見上げ、目を見つめた。自分が守ってやらねばならないと、堅く、強く思った。処分なんてさせてはならないと決めた。
「こんなところでぼうっとしないで。私は外すわ。頼んだわよ、苗木くん」
霧切の言葉で我に返る。狛枝の手を支え立たせ、病室へと歩き出す。恐ろしいほど静かだった。二人分の足音だけが鳴り、会話はなかった。鉄製の手すりを横に引く。真っ白な部屋に、ベッドだけがぽつりとあった。
「少し、横になろう」
微笑みかけた。きちんと笑えていたか心配だった。おぼつかない足取りながらも、狛枝はゆっくりとベッドに腰かける。心許なげな表情で、苗木を見た。
「……ねえ、苗木さん」
「……なに?狛枝クン」
「やっぱり、ボクなんていないほうがいいのかな」
苗木の表情が歪む。心臓を爪でひっかかれたようなもどかしさ、悲しさ、悲痛さ。そんなことないと言いけて、苗木は口を閉ざした。狛枝のもとへ歩みより、その手首をとる。ゆっくりとそれを口許へともっていった。赤い色をした爪が、ゆっくりと視界のなかで大きくなる。
「……これが、ボクの気持ちだよ」
狛枝の赤い手を、両手で包み込んだ。
「だから自分と、それとボクを信じて。……君は、必要なくなんかないんだ」
その時の狛枝の表情が。喜び、悲しみ、希望、絶望。それらを全部ない交ぜにしてどす黒く煮詰めたような、形容しがたい、けれども確かに狂気を孕んだそんな。背筋が疼いた。
でも構わない。彼がなんだろうと、一緒にいたい。絶望だろうと、なんであろうと。構わない、構わないのだ。

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