小説A

□好きだよ、だから許さないで
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ベッドが軋んだ。苗木の隣に腰かけた狛枝が、ふと微笑む。
「ねえ苗木クン、ボクがこうして苗木クンの隣にいられるようになるなんて、思ってもいなかったよ。こんなゴミクズみたいなボクなんかが」
苗木は後ろに手をつき、天井を見上げた。
「そう?ボクは最初から、こうなれたらいいと思っていたし」
狛枝を見る。
「こうするつもりだったけど」
少しの沈黙が流れる。それは不思議と心地よくて、破ろうとは思わなかった。春風が吹き抜けているような、優しい暖かさ。それが今の二人にはあった。
「……やっぱり苗木クンはすごいね。いつも君の言うことは正しいんだ」
「……そんなことはないよ。ボクなんて間違いだらけで……まだ不甲斐ない」
「いや、苗木クンは希望なんだよ……!どこにあっても輝いている希望……!まさしくボクにとっての光そのものさ!分かるよね苗木クン……!君なら分かってくれるよね!?」
大分息は荒かった。前のめりになり、喘ぐように息を繰り返す。その瞳には狂気が宿っているように、苗木には思えた。苗木がわずかに眉を歪めたのに、狛枝は気付かない。
「……狛枝クン」
「なんだい?苗木クン!」
二人の間に、乾いた風が流れた。
「……ボクは、希望なんかじゃないよ」
狛枝が目を見開く。信じられないといった顔で苗木を見た。手をつき、苗木のほうへ身を乗り出す。口を何度か開いて、それでもしばらく言葉は出なかった。
「なんで、なんでそんなことを言うんだい……!?キミは確かに希望なはずだ、あの絶望に打ち勝ったキミは!キミが希望でないというのならなんだと言うんだ!」
苗木は押し黙っていた。歯を食い縛るように、なにかに耐えるように。
「ボクは、希望なんかじゃない……」
「違う、キミは確かに希望なんだ……!ボクにとっての希望なんだ!」
苗木は目を閉じた。眉を寄せ、眉間に指をあてた。下唇を噛む。足元を睨むようにうつむく。
「苗木クン、キミは希望なんだよ……!希望じゃなきゃ駄目なんだ……!」
狛枝が肩を揺らした。
「狛枝クンっ!」
立ち上がった苗木が狛枝を見下ろした。息を切らして、肩が荒く上下する。苗木の表情はすぐに歪み、悲痛な色を帯びた。
「……ごめん、狛枝クン」
かすれ、ほとんど聞こえないような声だった。自分でも驚いているような、自分を責めるような。自分の爪先を見つめ、体の横で拳を握りしめた。弾かれるように顔を上げ、狛枝を見つめた。
「でも、……ボクは、希望なんかじゃないんだ……」
やりきれない、まるで絶望しているようだ。いっそのこと落ちてしまいたい。かつて彼が望んでいた絶望に。希望でなんていたくなかった。狛枝を騙すようにして修学旅行に参加させた自分なんかが。希望でいいはずがない。
いいはずが、ないんだ。
「……苗木クン、それでも、ボクにとってだけはキミは確かに希望なんだよ。ボクの中では、そうなんだ」
狛枝に両手を掴まれ、ぐっと引かれる。倒れこみそうになったが、その先は腰かけている狛枝の膝の上だった。またがるようにして着地する。狛枝は未だ握った手を離してはくれなかった。狛枝が苗木を見上げる。苗木はうなだれて視線を外し、それには応えなかった。狛枝が、握っていた左手をふと離す。驚いて顔を上げた苗木の頬を、その手で撫でる。いたわるような、優しい触りかただった。何度かそうした後に、今度は両手で苗木の頬を包み込む。苗木は意表をつかれたように目を見開いて、狛枝を見ていた。それからゆっくりと両手を伸ばし、狛枝の頬に触れた。震えていた。苗木クン、苗木クン。繰り返し狛枝は名前を呼ぶ。
「……狛枝クン」
すがるように、狛枝の胸に顔を埋める。パーカーの襟を、手繰り寄せるようにひっつかんだ。狛枝のにおいがする。離れたくない、と思った。だけど無理だ。ここにハッキングできただけでも奇跡のような確率で、しかもなぜか自分の記憶だけがある。罠だ、と直感した。江ノ島の、彼女のアルターエゴの罠。けどそれに乗るしかなかった。目の前に佇む狛枝を見て、引き返せる訳がなかったのだ。だからこそ。ボクは希望ではいられなくて、ここにもいられない。
「……狛枝クン、狛枝クン」
頭を撫でられる。心地よかった、狛枝の手が好きだった。あの赤い爪であっても。好きだった。確かに狛枝が好きだったのだ。もう会うことはないと決意して、送り出した。目の前で眠るようにしている狛枝を見るたび、会いたいと思っていた。次に会うときには全部忘れているのだとも。だから目の前に彼がいたとき、会わずにはいられなかった。呆れられても。好きだったんだ。
「……苗木クン。確かにボクにとって希望は崇高なものだけど、たとえキミが希望じゃなくとも、ボクは苗木クンが好きだよ」
その言葉を疑った。信じられなかった。あんなに希望が好きで好きでたまらなかった狛枝が、こんなことを言うなんて。希望でなくともいい、なんて。
これ以上ここにいては駄目だ。自分はただのバグでしかない。誘い込んだのは江ノ島で、だから早く立ち去らなければならない。もしかしたら自分を排除するためかもしれないし、自分を閉じ込めるためかもしれない。いずれにせよ駄目だ。悪影響しかもたらさないのなら。
「狛枝クン」
苗木の口調ははっきりしていた。重い決意を秘めたような。
江ノ島の手が伸びているのを感じた。チリチリと足元から焦げているような感覚を覚える。
「……ボクは、キミが好きだよ……だから、だけど、キミはボクを愛さなくていい、ボクを憎んでいいんだ……!ありがとう、狛枝クン。狛枝凪斗クン……!ボクにとってキミは」
苗木クン、と狛枝が言い終える前に苗木は消えた。苗木がなにかを言い終える前に消えた。まるでホログラムが消え去るみたいに。今も苗木の髪の感触が、頬の感触がこの手に残っている。だが苗木はもういない。苗木は。
耳鳴りがした。
「苗木?誰だっけ……?」
頭にノイズがかかったみたいに、耳鳴りがする。砂嵐が鳴っている。ザーザーとやかましく、思考を阻害する。
ボクにとってキミは。
なんだっけ、思い出せない。そもそもなんでここにいる?自分の部屋でなにをしていた。
思い出せない。


「どうだった苗木い、久々の再会は?」
目の前で江ノ島がやかましく笑う。煩わしい、目を閉じ耳をふさぎ知らぬふりをしたい。
「ねえ、どうだった?会えた時の希望と、それと引き離された時の絶望は?ねえ苗木、聞かせてよ苗木……!どうだった!?大好きな人が絶望に落ちたときの絶望、更正できるかもしれない希望、会えなくなる絶望、忘れられる絶望……!なんて素晴らしいのっ!素敵なのっ!ああアタシ苗木になりたい……アンタが最高にうらやましいわ苗木……っ!」
ボクは絶望なんかしない。たとえキミが絶望に落ちたって。忘れられたって。キミがいる限り、希望はどこにでも見える。
ボクにとってキミは、確かに希望だった。

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