小説C

□どうかその先にキミが
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深緑に袖を通す狛枝を、モナカは見た。彼は襟を掴んで、揺するように整える。背にぼんやりと浮かんだ赤い文字は、見慣れた血の色みたいだった。
「ねえ、本当に行くの?」
コートの裾が翻る。「うん、行くよ」彼は笑っていた。
彼の向こうの格子の隙間から光が差した。地面にはボーダーの影が落ちている。 床とも呼べない土気色のそれ。足跡が残っている煙ったいそれ。狛枝が一歩踏み出して、砂利の擦れる音がした。
「……モナカは、どうしたらいいの?」
わざとらしくコドモみたいに、モナカはそう問うた。いつもなら狛枝は召使いらしく、柔和な笑みを浮かべて曖昧にはぐらかす。ボクには分からない、ボクなんかにそんな権利はない。いつもモナカは、冷めた顔でそれを見た。
「……さあね」でもどうやら彼はもう、召使いではないらしいのだ。
モナカは沈黙した。しばらくして、それを狛枝の明るい声が断ち切った。
「……キミは、キミの思う絶望に進めばいいんじゃないかな」
そう言って狛枝は、彼の首にぶら下がる鎖の先を持ち上げて見せた。「これ、取ってよ」
「うん」モナカは頷いた。結局彼が自分になにをさせたかったのか、自分をどうしたかったのかは分からないままだ。彼がなにをしたいかすら分からないままだ。狛枝が手のひらを傾けて、鎖の先を落とす。金属の固く繊細な音が鳴った。狛枝はモナカの正面で片膝をつく。逆光で、表情はうかがえなかった。
「……なにしに行くの?」狛枝の首もとに手を伸ばしながら、ふとモナカは尋ねてみた。ろくな答えなんて期待していなかったから、そのぶん気軽にそう聞いた。元々彼は、自分について多くを語らない。鍵穴を探るのに少しかがむと、狛枝の髪が鼻先に触れた。
「……人に会いに行くんだよ」
意外な言葉にモナカは狛枝を見下ろした。前髪の隙間から覗く目は、昔を懐かしむように伏せられていた。「ふうん」興味無さげにそう返す。「その人、大事な人?」
「……分からないんだ」
「だって、会いに行くんでしょ?」
狛枝はため息をつく。「そうだよ」
続いて声が飛んできた。「ねえ、まだ?」
「忘れてた」狛枝の言葉でふと気がつく。
「なにを?」
モナカは笑った。「それの鍵」
「本当、キミって変なところ抜けてるよね」
生意気だ。そう思ってポケットを探る。その奥底に、固く小さな感触を見つけた。
「召使いのくせに生意気だにゃー」
「もう召使いじゃないからね」狛枝は肩をすくめた。彼があまりにも普通にそう告げたことにむっとして、モナカは尋ねてやる。
「ねえ、誰に会いに行くの?」
ややあって、短い返答。「……希望だよ」
「……希望?それって、アナタの希望?それとも、世界の希望?」
「……さあね。それを確かめに行くんだ」
苗木誠とかいう人だ。モナカはそう確信した。希望を盲信する狛枝ならきっとそうだろう、とも思った。苗木の妹をやたら気にかけていたのも、その彼が希望だからなのだろうか。再び彼の鉄輪に手を伸ばして、その表面をたどる。ひやりとした。やたら重ったいそれを年中首に下げていて、痛くはなかったのだろうか。
「……ボクはね、分からないんだ」
不意に狛枝が呟く。指先が、狛枝の髪の毛の裏に鍵穴を探し当てた。
「彼に褒められたいのか貶されたいのか、
彼に甘えたいのか離れたいのか、
彼を抱き締めたいのか突き放したいのか、
彼を笑わせたいのか泣かせたいのか、
彼に触りたいのか掴みたいのか、
彼を愛したいのか憎みたいのか」
そう言って彼は口を噤んだ。モナカはなにも見つけてなんかいないみたいに、指を這わせ続ける。「へんなの」つっけんどんにそう吐き捨てた。
「……それなら、別に行かなくてもいいのに」
「ダメだよ」答えはすぐに返ってきた。
「ボクは行かなきゃいけないんだよ。それはもう、決まっていることなんだ」
「意味分かんない」モナカは無表情のまま格子の向こうを見上げた。光が鉄に反射して、少し眩しい。
「分からないってさ」狛枝が突如笑った。「……キミは、本当にコドモだね」
「あーもういい。さっさと行ったら?召使いさん」
彼の髪をわけて、モナカは首輪に小さな鍵を差し込んだ。なんのつっかかりもなく、それは奥まで到達する。
「……だから、ボクはもう召使いじゃないって」
狛枝は楽しそうに言う。
「モナカにはー、そんなのどうでもいいのー。召使いさんは召使いさんなのー」
ゆっくりと、鍵を回す。カチャリと音がして、首輪が少し、ゆるくなった。
よいしょ、と手に膝をついて、狛枝は立ち上がる。やっぱり逆光で、彼の面つきを見ることはできなかった。
「……ボクは狛枝凪斗」
そんなの知ってるよ。その言葉をモナカは飲み込む。彼が自分の首の後ろに手を回すと、首輪ががしゃんと音をたてて落ちた。「……急に、なに」
「いや、特に意味はないよ。……誰かひとりくらい、ボクの名前を覚えていてくれてもいいかな、と思ってさ」
狛枝は楽しそうに見えた。それも、今までで一番。「じゃあお別れだね、二代目江ノ島循子さん」
「モナカはモナカだよ、……召使いさん」
「ははっ、相変わらずだね!」
「……さっさと行きなよ、もう」
「そうするよ」狛枝は短く言って、モナカに背を向けた。コートの裾はゆるやかに、風になびいている。あーあ、もう行っちゃうのか。つまんない、つまんない。狛枝の背は段々遠く、小さくなっていった。「せいぜい希望でも希望してなよ、えーと……名前忘れたけど、召使いさん!」その背に向けて、モナカは言葉を投げた。彼は歩きながらひらりと手を振る。なに、かっこつけちゃって。
変態、と床にぽつりとこぼして、モナカは目の前に横たわる首輪を蹴っ飛ばした。

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