小説C

□手を伸ばして、その先に。
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キミはボクの希望だ。
本当にそうなのだろうか、苗木は考える。そんな訳がない、その囁きが頭をかすめた。膝を抱える苗木に狛枝は言ったけれど、それを素直に受け止めることはできなかった。
狛枝が苗木の希望であったように、苗木は狛枝にとって希望だと。彼の言葉の意味を考えると、綺麗なような汚いような、そんな感情がせりあげてくる。もしそれが本当ならだけど、と苗木は逃げ場をつくりだす。そうじゃないかもしれない、そう思えば客観視できる。全部ボクのせいだから、彼をこんなことに巻き込んだのはボクだから。そしてそんな自分を希望だなんて、そう言ってくれるはずがないのだ。
『苗木くん、あなた……最近疲れてるんじゃないかしら?』霧切の言葉が頭に浮かんだ。どうやらすっかり思い出したらしい。全て思い出せばそれは、絶望する時だと思っていた。それでもそうでなかったのは、彼がいてくれたからだろうか。『それは違うよ』あの声が、鋭く空気を裂いてくれたからだろうか。
『苗木くん、あなた……最近疲れてるんじゃないかしら?』
『え?そう……かな……?』
『……隈が酷いわ。それにぼうっとしてる事が多い……』
『霧切さん……よく気が付くね』
『探偵ですもの。それに……目立つわ。嫌でも気付く……』
彼女は息を吐き出して顔を背けた。ちらりと視線が向けられて、苗木は首をかしげる。十神にも言われた。『ネズミみたいな顔だ、見せられるこっちの身にもなれ』あのとき苗木は苦笑したけれど、そんな場合じゃなかったのかもしれない。
膝頭に顔を押し付ける。目頭が熱い。じんじんと涙が滲んできそうだ。
ボクは。
ボクは希望なんかじゃない。そんな資格なんてないんだ、狛枝クンに、霧切さんに、十神クンに、朝日奈さんに、葉隠クンに、腐川さんに、顔向けなんてできない。消えてしまいたい。唯一のとりえも、今は落胆の影にその身を隠していた。ズボンが頬に摩れて、濡れた肌を刺激した。
『苗木クン』狛枝の声を思い出す。彼はいつも、穏やかに苗木の名を呼んだ。『苗木クン』まるで、苗木はなにも悪いことはしていないみたいに。『苗木クン』まるで、なんでも受け止めてくれるみたいに。「苗木クン」はっと、顔を上げた。
「狛枝……クン?」
彼は微笑んだ。「そうだよ」狛枝は苗木に手を差しのべる。その笑みを見つめて、苗木はそこに手のひらを重ねた。ぐいっとひっぱりあげられて、立ち上がる。
「苗木クン」彼はいつもより、切羽詰まっているようだった。「狛枝クン……」狛枝はまっすぐに、苗木を見た。「ごめん」その謝罪の意味が分からなくて、苗木は思案する。
「キミのせいとかボクのせいとか、そんなことを議論するんじゃなかったんだ。もっと、違うことを話すべきだったんだよ」
「……違うことを?」
うん、と狛枝は頷いた。「苗木クン」やっぱり彼は穏やかに、名前を呼ぶ。
「……確かにキミのせいだったかもしれない。確かにボクのせいだったかもしれない。でももう、そんなことを話すのはやめよう。ボクたちには未来がある。日向クンが、なによりキミが、創ってくれた未来があるんだ。それに……希望はどこにだってある。探せばどこにでもあるんだよ」
「狛枝クン……」
「苗木クン」答えるように狛枝は言った。再び、手を差しのべられる。その手のひらをじっと見る。「苗木クン」今度は促すような響きだった。
「……行こうよ。ボクらは……前に進むべきなんだ。……ボクがこんなことを言うなんて、少し変な感じはするけど……これは、かつてキミが教えてくれたことだよ。希望は前に進む……苗木クン、そうでしょ?」
「狛枝クン」
苗木の手がわずかに伸ばされる。途中でびくりと、躊躇するようにそこで止まった。
「希望は前に進む。それなら……前に進んでさえいれば……それは希望なんじゃないかな」
狛枝クン、と苗木は呟く。苗木クン、狛枝は微笑んだ。
「ボクは……前に進んでいいの……?」その笑顔がぼやける。
「ボクは、キミと一緒に前に進みたいと思ってるよ」
「狛枝クン」しゃくりあげそうになる。「苗木クン」狛枝の声が、優しく響いた。
「だから行こう。迎えが来てる」
「迎え……?」
「行けば分かるよ」いつのまにか、二つの手のひらは重なっていた。狛枝はそれに視線をやって、それを掴んで歩き出す。苗木は翻るコートを見て、繋がれた手を見て、一歩を踏み出した。狛枝が振り返って、笑みを見せた。
裁判場のエレベーターの扉。ボタンを押すとそれが開いて、眩い光が差してきた。待っているはずのエレベーターはなくて、すぐ外には砂浜が広がっていた。誰かのシルエットが見える。逆光で顔は見えないけれど、苗木はそれが誰だかすぐに分かる。日向だ。彼は二人の姿を確認すると、大きく手を振った。狛枝が小さく振り返して、それに答えた。
砂を踏む音がする。日向は小走りで、狛枝と苗木に近寄った。
「苗木、狛枝!」
狛枝は日向の視線を受け止める。
「無事だったんだな!」
「まあね」狛枝はさらりと答えた。
「日向クン……」苗木が漏らすと、日向は笑顔を向ける。「苗木、帰ろう」
「帰る……?」
「ああ。みんな待ってる」
日向の表情は力強かった。見るだけで大丈夫だと思えるような、そんな。まるで太陽みたいだ。
「ここから出るには……教師役が卒業ボタンを押す必要があるんだ。俺は正規のプロセスを経ないでここに来たから……教師役は」
日向が言葉につまる。頬を掻きながら、狛枝を見やった。「まさか、狛枝か?」
「そうだよ」狛枝は笑う。「不満そうだね!」
「不満というか……不安だ」
「ひどいなあ。ま、無理もないか。日向クンにはずいぶんとお世話になったからね」
「全くだ」
そこには胸騒ぎや危惧の色なんて、どこにもなかった。思わず胸を撫で下ろしたくなるような安心。苗木は二人を見て、笑った。
「ところでさ、そのボタンはどこにあるの?」
日向は自慢気に言う。
「心配ないぞ。人指し指を動かしてみろ」
狛枝は言われた通りに、人指し指を上に振った。するとそこに、ホログラムの画面が浮き出てきた。「ハイテクだね」驚く苗木と狛枝を見て、日向は無邪気に笑った。
『卒業』と書かれた画面。下には小さく、『未来機関』と『被験者の容体を確認の上、卒業を押してください』という文字が流れている。
「これを押せばいいんだね?」
日向はしっかりと頷いた。「ああ」
「じゃあ……『卒業』だね?」
狛枝は苗木と目線を合わせる。その瞳が優しくて心強くて、目を逸らすことができなかった。
「苗木クン」不意に名前を呼ばれる。
「一緒に押そうか」
「え?」
「ほら、手……出して」
言われるままに、苗木は右手を持ち上げる。狛枝は満足気に微笑んで、自らの手を上から重ねた。そのまま苗木の手を握りこむようにして、二つの手を画面に近付ける。
「ほら苗木クン、人指し指出さないと」
「あ、そっか」
「苗木クン。やっぱり……キミはボクの希望だよ。だから絶対に……見失わない」
「……狛枝クン」
「うん?」
「……ありがとう」
冷たい感触で、指がホログラムに触れたのだと分かる。「いよいよだな」日向が言った。目の前が四角く歪んでいく。少しだけ、怖い。視界がだんだん荒くなる。聴覚も嗅覚も機能しなくなってくる。目覚めなのか眠りなのか、分からなくなる。
狛枝クンがボクの手を、ぎゅっと握ったのが分かった。
それが最後だった。

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