小説C

□反論ショーダウン
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世界が回っている。自分じゃなく、他の誰かを中心にして。そう、遊園地のコーヒーカップみたいに。
それは徐々に収まっていく。ゆるやかに、僅かな遠心力を感じさせながら。不思議とその場から体は動かなかった。ふんばることもなく、気張ることもなく、ゆっくりと激しく、回転が小さくなっていく。頭がぼやけた。視界が白く覆われている。回転が止まっていくと同時に、それもなくなってきた。
落ち着いてきた視界の正面に、誰かが立っていることが分かった。目が合う。けれど誰かはまだ、分からない。回転している世界は、どうやらボクと彼の真ん中が中心になっているようだ。少しずつ彼の姿がはっきりしてくる。彼はボクに人差し指を突き付けている。ぱくぱくと彼の口が動いている。けれど言葉は聞こえなかった。
突如電流が走って、はっと目を開けた。


彼が希望だと言ってくれたのを、苗木は思い出す。
ただ自分は、絶望に身をやつしていた。それも覚えている。
だから忘れていたのかもしれない。引きずっていくとか、そんなことを言っておいて辛かったのだ。乗り越えないで、ずっとみんなとの思い出が背後からくっついてくるのが。忘れられずに、ふとした瞬間にそれを思い出すのが。克服して、忘れてしまえばきっと楽だった。ずるずると全身で引っ張って、忘れられずにそれでも気丈にふるまうよりは。手を離せば歩いていけるのに、それを引っ張っていかなきゃいけないのが。きっと辛かったのだ。
……ごめん。
でも彼は希望だと言ってくれた。
もう今は全部思い出した。
だからせめて、彼の希望らしくありたい。
前向きなのが、ボクの唯一のとりえだから。


「……そうだよ」江ノ島の声の中から、声が聞こえた。「キミは逃げたかったんだ、周りのことなんかお構いなしで」闇の向こうから、徐々に明らかになっていくその人の輪郭。目の前から飛んでくるそれが聞き慣れた声で、苗木は思わず口を覆った。
「最低だよ……狛枝クンに会う資格なんてない」
彼女の笑い声を割って、ゆっくりと、近付いてくる。その人の言葉で、狛枝クン、初めてその単語がはっきりと形を持った気がする。
「キミは希望なんかじゃない」
険しい目線が苗木を刺す。
「彼の言うとおりの希望なんかじゃない」
そう言って彼は口を固く結ぶ。
紛れもない、見間違えようもない、正面から、自分が歩み寄ってきていた。
「……まだ、絶望なんだよ」
どこか気だるげに彼は吐き捨てた。
今なら分かる。今なら……。
だから言える。頼りないかもしれない。間違っているかもしれない。
けれど。
「それは……それは違うよ!」
前に進みたいから。
目の前の『苗木誠』は、呆れたように嘲笑した。
「なんでそんなに自信を持って言えるの?キミはあの島で江ノ島が消えて、乗り越えたと思った。でもそうじゃなかったからこんなことになってるんだろ?」
「……そうだよ。ボクは乗り越えてなんかいなかった……。彼女のことを忘れてなんかいなかったんだ。……でも、忘れたかったのは本当だよ。言い訳もできない……」
「じゃあ私のことも、もう忘れちゃいましたか?」
ハープの玄を一本だけ丁寧に弾いた、その揺らぎのような声。
「……ねえ、苗木くん。死んじゃった私のことも、もう覚えていませんか?」
舞園さやかが歩み寄っている。黒髪の毛先を躍らせて、かつて苗木に縋ったときみたいに。
「……っ……それは違うよ」
苗木は唇を噛んで、首を横に振る。
「……覚えてる。あのプログラムの中では覚えてなかったけど、今は……ちゃんと」
「てかさ」また別の声が苗木を刺す。「別にどっちでもよくねー?」軽い調子だった。けれどそれはどこか軽蔑を孕んでいる。茶化すように試すように、桑田玲音は笑い飛ばした。
「……それは違うよ。……きっと、きっと大事なことなんだ。ボクがここにいて、キミがここにいる以上は」
「で、でもぉ……」その後ろから声が飛んでくる。
「苗木くんだって、したくて忘れたんじゃないと思うんだけどぉ……」
胸の前で指を組み合わせて、おずおずと歩み寄ってくる。スカートが揺れた、不二咲千尋が俯いていた。
「……それは……違うよ」
「え……?」
不二咲がたじろぐ。
「……ごめん。ボクはたぶん……キミたちのことを忘れたかったんだと思う。キミたちのことを覚えているのが辛くて……だから」
「そ、そうなのお……?」
不二咲はうつむいた。
「オイ、あんまりいじめてんじゃねーよ」その向こうから、ぶっきらぼうな声が聞こえた。少し光沢を帯びた、黒の裾が翻る。ボキボキと指を鳴らす音。
「……オメー、オレたちのこと忘れたのか」大和田紋土の声は低く、圧し殺すような静けさだ。
「……それは違うよ。確かにボクは忘れていたけど、今は、もう忘れてなんかない。もう……忘れたいとも思わない」
「これはもしかして……フラグ、というヤツですかー!?」甲高い悲鳴が場を引き裂く。丸々とした巨体が悶えている。山田一二三は鼻息荒くメガネを直した。「もうー、そういうことばっかり言わないでください」
舞園が頬を膨らませた。「フラグとか、よくわかんないよお……」不二咲もべそをかく。「いやいや……なんだかすみませんねえ……」山田は頭の後ろに手を当てる。それから、背を丸めて二本の人差し指をくっつけた。
「……苗木誠殿は僕のこと忘れちゃったみたいだけど……そうなんですか?」
唐突に切り替わった話に、苗木はぐっと言葉に詰まった。けれど、すぐにかぶりを振る。
「……それは……違う。もう思い出したよ、全部」
ぐらりと傾いた気をとりなすみたいに、苗木は深く息を吐いた。
「そうだぞ、やめたまえ!苗木君がそんなことをするはずがないだろう!」熱い声が苗木の息を遮った。拳を顔の前に掲げ、石丸清多夏は剛毅に歩を進めていた。
苗木はひゅっと息を吸い込む。
確かに嬉しいと思った。石丸のその、自分を信じてくれたような言葉が。ただ、その中で、もやもやとなにかが揺れていた。それは内側から蒸し暑く、水をかけて消してしまいたい。火を広げるように揺らぐそれを、苗木は歯を強く噛んで押し殺す。
「……それは、違うよ」
吐き出したのは罪悪だ。嬉しいと思う反面、苗木はその言葉を真っ向から受け止めるのが苦しかった。自分のしたことと直面しながら、それを否定する言葉も受け止めるのが。ついうつむいていた。石丸が不思議そうにこっちを見ているのが分かる。苗木がなにを言っているのか分からないという顔。
「……ボクは……『そんなことをするはずがない』ような人間じゃない……。どうしたらいいか分からないんだ、狛枝クンだって、日向クンだってボクを信じてくれた。迎えに来てくれた。手をさしのべてくれた。前に進もうと言ってくれた。できると思った。もう一度進めると思った。でもボクは、ここで足をとられて、立ち止まっているだけだ。どうしたら次の一歩を踏み出せるのか分からない……!ボクはなにをすればいいのか、分からない……」
思う。
失敗をしたとき、ヘマをしたとき、ポカをやったとき、自分はなんて使えないやつなんだと。なんて役立たずなんだと。時には生きている意味なんてないとか死んでしまえばいいとか、そういうことだって思うのに。
それを言葉にするにはえらく勇気が必要で、それを言葉にしたときひどく傷付くのだ。「……ボクは……最低だ」
そうだ、ボクはなにをしている。日向クンに、狛枝クンに、会いたい。会わなければならない。前に進みたいのに。
どうしたらこれを打開できるか、分からない。
「……それはあなたが、わたくしたちを信じていないからですわ」
鋭く通る声がした。かつかつと、ヒールが鳴る音がする。揺らぐヘッドドレス、ひらめくリボン。ふわりと広がるドレスは、形を保ちながらゆらゆら傾いた。セレスティア・ルーデンベルクが右足をかつんと前に出したとき、その視線は苗木を射貫いた。「……そして、自分自身を」
「……それは」
違うよ、と言いかけて、苗木は思い出す。ボクは最低だと言った自分の言葉を。彼女の鋭い目線はいつだって、カードの裏をたやすく読み取るのだ。苗木にとってのジョーカーでも、いとも簡単に。
希望になれると思ったんじゃなかったのか。彼に胸を張るために、前に進みたいと思ったんじゃなかったのか。
彼らの、彼女たちの言葉で瓦解しかけるその一片を、苗木は拾い上げる。ねえ狛枝クン、大丈夫だよね、大丈夫かな、大丈夫なのかな。それでさえ光を失いかけている。
ボクは信じていない?ボクを、みんなを。
「……分からぬか。我らはお主だ、苗木よ」
荘厳な響きが、耳朶を打った。
厳めしい顔つき、だがその相貌はどこか慈愛を感じさせる。大神さくらが近付いて、苗木の肩に両手を乗せた。
「キミらは……ボク……?」
「ああ。我らを信じろ。さすれば、自ずと……」
そこで大神はすっと言葉を止めた。苗木が縋るように視線を向けると、大神は答えるように見つめ返す。
「……苗木君は、私たちのことを忘れたかった」
静かな声がした。
「……ずっと、私たちの思い出とか、ふとした言葉とか、ちょっとした記憶とか、そういうのを時折思い出すのが辛かった。乗り越えるって言ってしまえば引きずる必要なんかなくて、忘れてしまったってよかったのに。それが乗り越えるってことなんだから」
戦刃むくろが、冴えた目を向けた。
「でも引きずるっていうのは……ずっとつきまとう。でも、苗木君がそれを選んでくれて……私たちは嬉しかったのかもしれない。ねえ、循子ちゃん」
信じられないような名前が聞こえて、苗木は唖然とした。
「……ああ?嬉しい?んな訳ねーだろうがあ!オレはなぁ!もうそんな感情は捨て去っちまったんだよ!」
中指を突き立てて、暗がりから現れた江ノ島循子は叫んだ。
「でも、循子ちゃんだって大好きなクラスメイトに忘れられたら悲しいよね?」
「……そんな訳……ないじゃないですか……どうせ私なんて……その程度なんですから……」
指に髪の毛を巻き付けて、江ノ島はこぼした。
「だって、大好きなクラスメイトがコロシアイする様子を見たら絶望すると思ったから循子ちゃんは苗木君たちをコロシアイの中に閉じ込めたんでしょ?」
「そんなのは便宜上だよ……本心じゃない」
目を細めて、江ノ島は斜に構えた。
「そんな大好きなクラスメイトに忘れられたら、やっぱり循子ちゃんは悲しいよね?」
「もー、お姉ちゃんってば相変わらず残念だなあ!そんな訳ないじゃーん!」
顎の下に二つの拳をあてて、江ノ島は語尾を弾ませた。
「だから、苗木君の引きずっていくっていう意思は、やっぱり嬉しいんだよね?」
「愚かな!私様は人間などに影響されないのじゃ!」
腰に手をあてがって、江ノ島は見下ろした。
「循子ちゃん……ねえ、そうだよね?」
「しつこい残念なお姉ちゃんに説明しましょう。私は江ノ島循子……ただの絶望です」
江ノ島は滑らかに言って、眼鏡を直した。
「じゃあ、忘れられてもいいの?」
「うぷぷぷぷ……もしそうなったらさあ……。
……絶望的だよね!もう、本当に絶望だよ!
ボクがオマエを苦しめたのも絶望させたのもぜーんぶ忘れて、苗木クンはのうのうと笑って生きてくなんて、ホント絶望的だよね!」
「……絶望的……?」
それは、彼女も忘れられたくないということなのか。確かに言った、ボクは死んだみんなのことを引きずっていく。霧切さんも言った、乗り越えるよりずっと辛い道を選ぶのねと。ボクはあのときそれでもいいと頷いたけれど、それは江ノ島のことも引きずると思ってそうしたのだろうか?
「……ね、苗木君。もう、あとは信じるだけだよ」
江ノ島を忘れることこそが、正しいんだと思ってきた。ただ目の前で絶望的だと叫び散らす彼女を見て思う。
それは本当に正しかったのだろうか?
敵対していたから、その惨劇を乗り越えるのが正解なのだと思ってきた。だが、忘れていたけれど、それでも江ノ島だってクラスメイトだったのだ。
忘れさせたのは江ノ島だ、自分のなかでなにかが叫ぶ。だから引きずっていく必要なんてない、忘れたほうがいい。
苗木はゆるゆるとかぶりを振った。
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