小説C

□What did you lose?
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 彼は。
 狛枝クンは今、希望ヶ峰学園の一年生だ。
じゃあボクは?苗木は思う。だって、ボクは彼の後輩じゃないか。それが前提で苗木は、今まで過ごしていたはずだった。それが一番大事なことだった、苗木にとって。だけど失った。じゃあ何だ?今自分は。自嘲の笑みがこぼれた。それは紛れもなく狛枝が、楽しそうだから。苗木なんていなくても忘れてしまえば覚えていない。当然のことだけれど。けれどそれでいいのかもしれない。だってこんな、絶望とか予備学科とか。そんなものに苛まれるよりは。だから失った。
 狛枝の微笑み、モニターの中。南の島の青い海が波打つ。海鳥が飛び立つ、ヤシの木が揺れた。砂浜はじりじりと照っているし、海には魚が泳いでいるのが見える。そうだ、これでいい。
 でも、胸の奥でなにかがざわめくのだ。激情を囁くのだ。ひっそりさざめくそれを、引っ張りだそうとするのはなんだろう。苗木は頭に手を当てがって、首を振った。そんなものはありはしない、きっと。この部屋は暗くて、画面の灯りがありありと見える。狛枝の白さは際立つ。
 でもこれで、彼は生きていける。苗木はゆるゆると笑う。自分に訪れる衝動に怯えて笑う日は来ないのだ。狛枝はただの幸運であり、それと対等な不運であり、それを受け入れてさえいれば日常が彼を迎える。ただそこに苗木はいないけれど。
 誰にでも向けられる柔らかな笑み、けれど打ち解けるといくつも表情を見せてくれる。だけど今は、そんな過去は失われた。狛枝が目覚めたら、またやり直しなのか。いや構わない、どうだっていいことだ。私情を挟むな。モニターに背を向けた。苗木の顔は暗い。
 これでよかったと苗木はつぶやく。これでよかった。切り捨てるものと守るものを選んだだけだ。シンプルな二者択一。答えは最初から決まっていた。それに今更、どうしようもない。だからこれでよかった。こういう、妥協みたいな言葉は好きじゃない。
 だけどこれでよかった。
 ボクは未来機関第十四支部、苗木誠だ。個人の願望は通用しない。機関員としての使命を全うせよ。遵守せよ。……分かってる。
 だからもう止めよう。いつまでも尾を引くこれを断ち切ろう。ボクはもう、彼の後輩ではないから。狛枝にとって苗木は、もう他人だ。
 苗木は知っている。狛枝の口癖も、狛枝が好きなものも、狛枝の誕生日も知っている。だけど狛枝は知らない。名前も知らない。顔も知らない。そんなちぐはぐに対峙したときどんなふうになるか、苗木には想像がつく。だから、決意を固めた。
 苗木は振り返って、もう一度だけ狛枝を見る。かつての先輩の姿とモニターの中の狛枝を重ねて、モニターを見る。彼とはきっともう会えない。大丈夫、いつかきっと、冷静に彼を見られる日がくる。だから大丈夫。いつまでもこれが続く訳ではないのだから。モニターの中で、入道雲が蠢いた。
 けれど、苗木はもうすぐ自分を責めるのだ。

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