小説C

□何が好きかって、希望だよ
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ボクが好きなのは、もちろん希望である。
狛枝はくつくつと笑う。だから希望を持っている人が目の前にいたって、ボクが好きなのは付随している希望だけなのだ。そう、苗木クンじゃなくて、苗木クンが持っている希望だけをあいしている。苗木はそれを、きっとよく分かっている。つかず離れずの距離。時々重なることはあっても、知らない内にまたすっと元通りになっている。それが狛枝にはちょうどいい。苗木がたまに浮かべる自嘲気味な笑みは、そうではないと言っているけれど。伸ばされた手をさらりと躱して、知らないような顔でなに、ととぼけるのが狛枝は得意だった。苗木の傷ついたような顔を見ないふりをするのも。それでいい、と思っていた。けれどそれが形骸化し始めたのは、いつだっただろう。狛枝は己の変化に気が付いているけれど無視する。そのほうが、楽だから。情が移ったんだ、そういうことにする。
「……苗木クン」
名前を呼ぶと、彼は狛枝から身を起こす。
「暑い」Tシャツの襟首をぱたばたとつかんで仰ぐと、苗木は少しだけ、眉を下げて謝る。「ごめん」苗木はいつものジャケットを脱いで、それはこのソファの下に散らばっている。一方狛枝はというと、いつもどおりの緑のコートを羽織っていた。袖は肘のすぐ下あたりまで無造作にまくってあるが。
「……今日は?」苗木が腕で上体を支えたまま、問う。
「帰るよ」そっけなく、狛枝は言い放つ。苗木の顔も見ないまま。
「……分かった」
それでもどんな顔をしているかくらい、もう狛枝にはわかる。苗木の部屋に泊まったのは、今日で四日目だ。もうそろそろ、『当たり前』になる前に。なんだか落ち着くようなこの雰囲気から、逃れなければならない。苗木が狛枝から離れて、狛枝の足元になおった。足元が沈んだ気配がする。曲げていた狛枝の脚を苗木が持ち上げて、それから自分の膝の上に乗せた。



「ねえ、狛枝クン」
ソファに横たわる狛枝を、遠慮がちに苗木は揺する。「……なに?」視界を覆っていた腕を上げて、狛枝が苗木に目をやった。
「もう、遅くなっちゃうよ」
苗木は心配するでもなく、ただ気に掛けるように告げる。確かにもう、窓の向こうは闇に覆われていた。点在する電灯がわずかに照らすが、それすらも時折チカチカと瞬く。「ん……もう帰るよ」起き上がりながら狛枝は呟いた。「大丈夫?」苗木が不安げに問う。狛枝は頷く。それを見て、苗木は目を逸らした。膝に手をついて、狛枝は立ち上がる。皺になったコートの裾を軽くはたいた。
「じゃあ。世話になったね」
「……ううん」
淡々とした言葉に、苗木は控えめに首を降る。かすかに口元に浮かべる笑みも、狛枝は見ない。そのまま玄関へと歩いていく。少し後から、苗木もついていく。狛枝は何も言わない。もう、この部屋の構造とか、冷蔵庫の中には大抵なにが入っているかとか、そういうことも知っているのに。なぜ二人のこのあいだだけが変わらないのだろう。苗木はふと、自嘲じみた笑いを浮かべる。彼に合わせているのは自分なのに。物足りなさに寂寥を覚えることも数知れない。ただもたれかかりたいときに、そこになにもないことが寂しかった。狛枝はいるのかもしれないけれど、ただ立っているだけ。そこに二人で、それぞれ離れているしかないのだ。
靴を履き終えた狛枝が、すうっと苗木を見た。
「……またね、苗木クン」
『またね』。本当に?いつの日か、彼はぱたりも来なくなってしまうかもしれない。いつも苗木は、掴みどころのない狛枝の言葉が不安だった。おいでよと言いながら背を向けるようなことを、平気でするのだ、狛枝は。追いつけるなんて思ってもいないのに。
「……うん」苗木は手を振るけれど。狛枝はそれを見て、なんの素振りもなくドアに手をかけた。するりと扉をくぐり、そうして狛枝の姿は見えなくなる。振っていた手が、惰性で残った。扉が閉まる。苗木だけが取り残される。ほんの少しの間、狛枝の足音がくぐもって響いていた。
それもすぐに消えた。



狛枝の頭上で、電灯の灯りがぱっと消えた。それも一瞬だけで、またすぐに灯る。夜道を一人で歩く。なぜだか心が落ち着く気がした。ポケットに突っ込んだ両手を、そのなかで一度開いてまた握った。
長い息を一つ吐く。湿った空気がまとわりついて、うざったかった。なんだか不快だ。さっきまではどこか心地よかったのに。今度はため息を漏らす。不機嫌そうに、狛枝がこぼした。「……ボクらしくないなあ」立ち止まる。幾ばくか思案して、狛枝は振り返る。そのまま踵を返した。
来た道をまた辿る。まったくもってらしくないと、狛枝は可笑しそうに笑う。肩をすくめた。両手をポケットから出す。生ぬるかった空気が流れて、すっきりした。
なんて言おうか。笑いながら狛枝は考える。もちろんふざけ半分で。……うん、それがいい。口元を綻ばせた。なんだか、おもしろいような心地がする。
……見えてきた。明かりがついている。さっきあそこを出てから、どれくらい経ったろう。五分くらいしか過ぎていないに違いない。苗木クンはどんな顔をするだろうか、歩きながら少し想像してみた。鳩が豆鉄砲くらったような顔?苗木のそんな表情は見たことがないから、鮮明に思い浮かべることができなかった。
階段を上がる。部屋のそばを通るたびに、水が流れる音とか、テレビの笑い声とかがわずかに聞こえる。黙って階段をのぼった。
部屋の前に立つ。別に、緊張とか。そういう感情はないけれど。ノブに手をかける。そのまま、いつもどおりに扉を開く。目の前からぱっと明るくなって、少し目を細めた。さっき別れたままの場所に、苗木が立っている。こういう顔するんだ、狛枝は新鮮なようなおかしいような、そんな気持ちになった。
「……忘れ物」狛枝は笑いを滲ませて告げる。
この後はなんて言おうか。

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