小説C

□そのきわ、雨音に埋もれる
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雨粒が、ボクの頬を滑っていった。昔から水の音が好きだった。水の色が好きだった。水のもどかしさが好きだった、だから。
雨が降っている。ボクのまわりの水面に降り注いで、たくさんの波紋を生む。一歩、前に進む。足が重くて、腰から下の衣服が肌にまとわりつく。さざなみが、ボクを突き飛ばそうとした。ボクは動かなかったけど。遠くから見ると深緑色をしているのに、こうして浸かると水面は無色で、黒っぽく濁っている。身じろぎをすると、足元で砂が舞い上がったのがかろうじて見えた。
雲でグレイに覆われた空を見上げる。雨が目を掠める。額を、頬を、鼻筋を、唇を容赦なく打って滑っていく雨が心地よかった。はっきりしているわけではないのに、質量が直に皮膚を押すみたいなこの感覚が好きだった。それが一瞬でなくなって、水の跡だけがのこるところも。また一歩を踏み出す。水が、胸のあたりまでせり上がってきた。少し大きい波がくると、ボクの顔はもう埋もれてしまう。皮膚呼吸ができなくなって、ふわふわするみたいに、ちょっとだけ息苦しい。それなのに、体の芯だけ重いみたいな。
こうしてボクは雨の音に沈んでいく。空気いっぱいに溶けたこの音のなかに。目を閉じる。まず雨のしけったにおいを感じて、雨粒が海面を打つ音がして、波がさざめく音がした。だらりと垂れたボクの手が、海のなかでたゆたった。忘れてない。キミがくれた傘を雨が叩く音も、ちゃんと覚えてる。鮮やかな赤は、目が覚めるみたいに綺麗だった。一歩、進む。
水面はもう、ボクの顎くらいの高さだ。膝からだんだん暗くなっていって、足はもう見えない。耳元で雨の音がする。揺らめく海面が時折耳を覆って、水の、蠢くみたいな低い音がボクを満たした。唇を舐める。ちょっとだけ、しょっぱかった。波が引いて、それに合わせて上体が引き寄せられる。足は少し砂に沈んでいて、ぬかるむみたいに動かない。その後に波がきて、ボクの前髪は額にぺっしょり張り付いた。目を開けたときにはもう、口元は海に沈んでいた。潮が満ちてくる。もうじき満潮になって、あと五十センチくらい、海面は高くなる。
そのまま十分くらい動かないでいると、鼻まで海水に覆われた。波が引いたときに一瞬だけ呼吸ができるけれど、そんなに大した間じゃない。すぐ息ができなくなった。瞼を下げる。足を一歩前に出した。額まで沈んだのを感じる。もう一歩前に出した。きっと頭まで沈んだ。力を抜くと浮いてしまいそうになる。こらえきれなくなった空気が、鼻と口からごぼごぼと漏れた。それが頬を撫でる。体の中心からなにかが浮き上がってきそうになって、それが気管を塞いでいる。水が頭のなかで揺れて、波打つ。息を吸い込んでしまいそうになる。
だんだんと、感覚がぼうっとしてきた。それでもあいかわらず、苦しい。手が自分のものじゃないみたいに、動かせなくなった。足も、鉛がくっついているみたいになった。体が浮く。うつぶせのままで。目が半分、開く。薄い膜に覆われているみたいに、真っ暗だ。その闇が、波に合わせて形を変える。それもすぐに、ぼやけた。息苦しさを感じなくなった。唇が半開きになって、なかに海水が流れ込んでくる。全身の力が抜けた。体が重ったくなったのに、浮遊感に包まれる。
それが最後だった。
靴がひとつ、海を漂っていた。

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