小説C

□早く刺して、忘れて、そうして焼き付けて。
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苗木は手の中の凶器を握り締める。汗ばんでいたのがわかった。力を入れると、ぎゅっと滑った。取り落としそうになって、慌てて掴みなおす。手は震えていた。それが収まらないかと、苗木はさらに、力をこめた。
息を吸い込む。
身体のなかから凍るかと思うほど、冷たかった。苗木の口から白い息が広がる。けれど、すぐに消えた。ナイフの刃が冴えた気がした。
唾を飲み込む。




「……早く」
狛枝が言った。
口がやたらと乾く。左の手は虚空を掴んだ、力は入らなかったが。右手はナイフの存在を確かめる。指が薄くなっているような気がして、苗木は親指で他の指を握りこんだ。
できるわけがない。
言葉にはならずに、息だけが抜けた。喉が痙攣しそうだった。時々息がつまるように跳ねて、その度に苗木は唇を噛んだ。
狛枝はただ苗木を見据えている。冷たいような目でまっすぐに。微笑みはなかった。いつも浮かんでいる弧はどこにも。
崩れ落ちそうになって、後ずさって受身をとる。膝の力が入らずに、がくんと床に身を預けそうになる。ぐっと、息を喉に溜めてこらえる。いつもみたいに狛枝が助けてくれないかと思った。
「……ボクも少し怖いんだ」
狛枝が腕を広げる。苗木を抱きとめるみたいに。足がおぼつかなくて、苗木は一歩後ろに下がった。
「……でも、少し楽しみなんだ」
天井を仰いでいる。ぐちゃぐちゃの瞳で狛枝は。「ボクがキミの手でどう終われるのかさ……!!」
それなのに、理解できる気がした。
共感はできないことはあったけれど、狛枝の感情のなかで理解できないことなんてなかった。心に影が流れ落ちることはあっても、それを捨ててしまいたいとは思わなかった。
のに。
「できないよ……!ボクには、ボクには……キミを殺すなんてできないんだっ!!」
じゃあ狛枝もそうなのか。
もしボクと狛枝クンが逆の立場だったら、彼もこういうセリフを言ってくれるんだろうか?
ぐらぐらと、ナイフの切っ先が危うかった。
彼が好きなのはボクの希望だった、ボク自身ではなくて。ボクが不運ゆえにあの学園生活に巻き込まれて、それを幸運ゆえに乗り切って、希望だと称されたから。
苗木は自分の呼吸が浅いのに気がつかない。
だからボクじゃない。彼はボクごしに『希望』を見てるんだ。
……ツイてない。
「……複雑だけど、今なら言えるよ。ボクはいなくなったほうがいいんだ。こうなってよかった」狛枝は息をつく。「……その程度の人間なんだよ」
「それは違うよッ!!キミはいなくなっていい人間じゃない、キミは」
他にすがるところがない、苗木はナイフの柄を握りしめた。「……ボクは……キミがここにいてくれてよかったと思ってるのに」
「あはっ、それは嬉しいなあ。なんてツイてるんだろう!この不運の引き換えがこの幸運なのかな?」
「……狛枝クンっ……」
彼はなんでいつも、ボクの言いたいことを平然と無視するのだろう。
分かっているくせに、汲み取ることは簡単なくせに。
少なくとも苗木の言いたいことはそんなことではなかったのに。
「……はあ。なんだか悲しくなってきちゃったよ……苗木クン。ほら、早くしなよ」
狛枝は改めて苗木を見つめる。
「……そうじゃないと、キミが死んじゃうんだからさ」
なんとも思っていないくせにそういうふうに身を案じるのはさすがにズルいんじゃないかと、苗木は思った。

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