小説C

□EAT ME
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狛枝が金魚を飼い始めた、らしい。
『ボク、金魚を飼い始めたんだよ。』
いつもより少しだけ嬉しそうにそう教えてくれた。へえそうなんだと思っていると、あいつは携帯の画面をつきつけてきた。真っ赤な金魚と、白と赤のまだら。かわいいなというと、狛枝は真面目な顔で『でも、たまに気持ち悪いときもあるよ』なんて言った。じゃあなんで飼い始めたりなんかしたんだって訊くと、ソニアにもらったんだと答えた。
金魚すくいに大興奮したソニアと、付き添いの左右田で何びきもとってきてしまったんだそうだ。なんで狛枝にあげようと思ったのかは分からないけれど、金魚鉢とエサ、それに空気を送るポンプまで一緒に持ってきたから、別にいいかと引き取ることにしたらしい。
残りは、ソニアさんと左右田クン、それに左右田クンは不満がっていたけど、田中クンとの三人で飼うことになったんだよ、と苦笑気味に教えてくれた。
『金魚って、エサがなくても1ヶ月は生きるんだって。しぶといよね。』
さっきまで俺に見せていた写真をふと見つめて、狛枝が呟いた。『むしろ、食べ過ぎるほうが体には悪いらしいんだよ……って、田中クンが教えてくれた。』
『へえ。お腹が空いたらすぐ死んじゃうイメージあったけどなぁ』
『エサは、少しでいいんだってさ』
ねえ日向クン、もしボクが面倒見られない時は、代わりによろしくね。



「……狛枝?」
病室のドアを開けながら、俺はベッドに目を這わす。狛枝は起きているだろうかと。狛枝はベッドの上で横たわっている。目を開いたままぼうっとしている。
やがておもむろに顔を横に向ける。「……日向クン」
「調子はどうだ?」
「……上々だよ。ステキな鎮静剤を点滴してもらってるからね。」
「……そりゃよかった。桃食べるか?」
「……じゃあ、いただこうかな。」
持ってきた果物ナイフと桃を取り出して、病室の棚から皿を1枚出す。「……ボクのかわいい金魚さんたちは元気かな?」
その言葉に、さっき世話をしてきたばかりの金魚たちを思い出した。
「ああ、元気だよ。」剥いた皮が1枚、皿の上に落ちる。「エサをやって水を換えてきた。水換えは5日ぶり」
「……うん、ありがとう。日向クンもだいぶ慣れてきたね!」
「慣れたくはなかったけどな」
「まあまあ、そんなこと言わないでさ!」
狛枝が入院したとき限定の金魚の世話になんて、慣れたくはなかった。
今日、狛枝が起きていたのは10日ぶりだ。
少し痩せた。
狛枝が、皿の上の桃のひとかけを指でつまむ。
俺は皮をむきながら、ちゃんと食べてるか、と聞いた。
「うん、食べてるよ。味の薄い病院食」
「でもお前、痩せたぞ」
「でもボク、食べてる」ここで狛枝は、一度口をつぐんだ。
「……日向クン」一旦手を止めて狛枝を見ると、あいつは力なく笑った。「ごめん、吐きそう」
嘔吐盆を探す。


狛枝の部屋に、金魚を見に行った。狛枝がいるときにこうして水槽を見るのは初めてだ。退院した狛枝はまず、水草がほしいと俺に言ってきた。苗木にその話をすると、まず驚いた。『……金魚?狛枝クンが?へえ……なんだか微笑ましいな。わかった。取り寄せておくね』と笑ってくれた。『いい兆候かな』それから遠くを見るようにこぼした。
その水草がいま、水の中で揺れている。まだらのほうの金魚が、それをつつく。
「なあ、この金魚の名前なんていうんだ?」
狛枝は水槽を見たまま微笑む。「……秘密」
「呼びにくいだろ」
「へえ。日向クンが金魚に話しかけてるところ、見たいな」
ちらりとこっちを見る。「……かわいがってくれてるんだね」
「……頼まれたからな」
「……ふうん」少しにやりとする。「……でも、なんにせよ、ありがたいよ」
狛枝が、水槽に人差し指を突き立てる。その先では変わらず、まだら模様の金魚が水草をついばんでいる。「最近、元気ないんだ。こっち」
そう言っているのに、狛枝の目は真っ赤な金魚に向いていた気がした。



「日向クン!」
自分の部屋に戻る途中、苗木と出くわした。
「最近、狛枝クンの様子はどう?」
俺に歩調を合わせながら、苗木はそう尋ねてきた。
「どうって……特に変わりないと思うけど」
「そっか。……そうだ、金魚なんだけどね」
「……なにか問題か?」
「ううん。ちょっと調べたんだ」
苗木は頬を掻きながら、「狛枝クンに、調子が悪いって聞いたからさ」と笑った。
「……最近、ここらへんの地盤が崩れててね。それで、地中のミネラル濃度が高くなってるらしいんだよ。だから水道水にもその影響が出てるみたいで……そういう水だと、金魚の具合が悪くなっちゃうみたいなんだよ」
「へえ、そうなのか……。知らなかった」
「だからね、これ!」苗木はペットボトルの水を差し出す。「ミネラルがあんまり入ってない水らしいよ。十神クンが用意してくれたんだ」
「おお……。狛枝に渡してみる。ありがとな!苗木」
「うん。よろしくね。ボクも、あとで見せてもらいたいな」
マイナーな歌手を好きになって、それがだんだん、有名になってきた。
そんな気持ちになった。
「……実はね」名前が微笑む。「ソニアさんと左右田クンがお祭りに出かけたとき、霧切さんも一緒についていったんだ。機関員もひとりは付き添わなきゃいけない、って規定でね」
「……そうだったのか」
そうだ、あの二人だけで外に出られるはずがないんだ。
「金魚を狛枝クンにあげたらどう、って提案したのも、霧切さんなんだって」
「なるほど……霧切らしいな」
「『ふたりとも、とても楽しそうだったわ』って嬉しそうに言うから……なんだかボクまで嬉しくなっちゃったよ」


「……狛枝?」
ドアはノックしない。ボク、ノックの音を聞くより、ドアが開く音を聞くほうが好きだな。
『……そんなに他人行儀になる必要、キミとボクならないでしょ?』
そう言われて、おしまいだった。
窓際のわずかな逆光のなかに、狛枝の姿を見つける。その向こうにかろうじて、直方体の水のきらめく影が見える。
「……狛枝、これ」
狛枝はゆっくりと振り向く。ゆっくりとこちらを向く。
「狛枝、これ。苗木が、金魚の具合が悪いのは、水のせいじゃないかって。」
「……水のせい、か。そんなの思いもしなかったな」
「本当だよな。俺もびっくりしちゃってさー」
狛枝の目が、なんというか、据わっている。いつもより鈍く光っている。夜中だからかもしれなくて、眠いからかもしれない。
不満をかき消すように俺は笑ってみる。
「……でも、水のせいってことは、この金魚たちはなにも悪くないんだよね。」
狛枝が水槽をつっつく。
「まわりが悪いだけなんだ。なにも悪くない」
一瞬遅れて、理解する。
「ああ……狛枝も、なにも悪くない」




水を換えた矢先に、狛枝はまた入院することになった。精密検査。
「日向クン」
見舞いに行くと、狛枝の病室への途中の曲がり角では苗木が立っていた。「……その後、金魚の様子はどう?」
「ああ、元気だ。その節はありがとう」
よかった、と言って、苗木が軽く足踏みをする。偶然じゃなくて、しばらくのあいだ俺を待っていたからだと気付く。
「……そうだ、聞いたよ。」苗木がいたずらっぽく俺を見上げた。「金魚の名前、まだら模様のほう。」
「え?」
「ハジメ、っていうんだって。」
「……『ハジメ』?」
「うん。このあいだお見舞いに来たときに聞いたんだ。もっとも、狛枝クンがうっかり口をすべらせた、って感じだったけどね」
苗木が足を止める。狛枝の病室には声が届かないだろうぎりぎりのところで。
「もう一ぴきは……教えてくれなかった」
ハジメ、と口だけ動かす。ハジメ、創。俺の名前。
「……あ、苗木。」
「どうしたの?」
「水槽……、狛枝の病室に、動かしてもいいか?」




狛枝は暇さえあれば、水槽を眺めているらしい。最近は俺も検査があって、あいつのもとを訪ねていけない日々が続いていたけれど。
苗木に頼んだ甲斐があった。久々に、病室の前に立つ。
「……狛枝?」
ドアを開ける。
狛枝は水槽のところに立っている。また見ていたのかと思って、なんだか嬉しくなって金魚を見てみると一匹しか泳いでいない。
ハジメがいない。
「……日向クン」狛枝は俺のほうを見なかった。
「金魚って……死体が浮いてると食べちゃうんだって」
真っ赤な金魚が水面に鼻を突き出して、ぱくぱくと口を動かした。


「……苗木?」
「……っ日向クン!今日、狛枝クンが」
病室の窓から、水槽の水を流そうとしてたんだ。
「……なんでこんなことをしたのかわからない、って。金魚は無事だったよ」
行ってあげて。
階段を下りて、この階にしかない、病棟と本部をつなぐ渡り廊下を急ぐ。いつのまにか小走りになっていた。
そこからまた、階段を上る。狛枝の病室は最上階、窓は開くけれどその奥には人が通れない程度の柵がある。
飛び降り防止。
「……狛枝!」
病室に入ると狛枝はベッドに横たわっている。
水槽の近くに餌が散らばっている。水槽掃除用の網には、ふやけたエサがたくさんひっかかっていた。
『むしろ、食べ過ぎるほうが体には悪いらしいんだよ……って、田中クンが教えてくれた。』
「エサをたくさんあげすぎちゃったんだ。間違えたんじゃなくて、わざと。我に返ってすぐそれですくったけど……だいじょうぶかな」
「だいじょうぶ、だいじょうぶだ」
「ハジメが、死んじゃったんだ」
俺を勝手に殺すな、とか、言えばよかったのかもしれない。「やっぱり、苗木クンから聞いてたんだね、名前。」
「……ああ」
「具合が悪くて、薬の副作用で眠くて、おまけに吐いたから、すぐ寝ちゃった。泣かなかったよ、さすがにね。ただ気は沈んでた。起きたら、ハジメを、日向クンにも一緒に来てもらって埋めようと思ってたんだ」
「……ああ」
「起きたら、ハジメの死体なんてどこにもなかった。ただ、ハジメの柄の尾びれみたいのが、ぷかぷか浮いてた。キミが久しぶりにボクのところに来てくれたのはその3日後だよ」
「……お墓、作ろう。埋めるものがなくても、お墓くらい作れるぞ、狛枝」
「……うん、そうだね。ねえ日向クン、この金魚の名前を教えてあげるよ。」
この真っ赤な金魚、ジュンコっていうんだ。

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