小説C

□鼓動の子守歌
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ウィスパーの声が騒がしくて、ベッドに寝転んでいたケータが思わず眉をしかめる。床で雑誌を見ているジバニャンはチョコボーを、手を使わずにもぐもぐ器用に食べている。
マンガを枕に伏せる。身を起こすと、ウィスパーが部屋の中を飛び回っていた。
「ケータくん!!すごいです!!ワタクシ、ずっとこれ欲しかったんでうぃすよ!!」
「はぁ〜?ただのアイマスクじゃん。ウィスパー、変なもの欲しがるよね……」
「ちがうんです!ち、が、う、ん、で、うぃ、す!」
さっきケータが渡したばかりのアイマスクを目に当てて、ウィスパーがくるりと一回転。誇らしげな笑みを浮かべる口元、目にはアイマスクで人差し指を突き出す。ケータがこともなげに、目線だけを向けた。
「じつはワタクシ……最近眠れないんでうぃす!」
「いやそれ自慢げに言うことじゃないし……」
マンガを膝の上で開きながら、ケータが表情を険しくする。騒がしいニャン、ジバニャンが寝返りをうって尻尾を揺らした。チョコボー、食べたらゴミ片付けてよね、とケータはページをめくる。めんどくせーニャン、じゃあもう買ってこないからね。はいはいわかったニャンよ、とジバニャンが折れた。
「……って、聞いてます!?最近寝不足のワタクシの心配は!?心配じゃないんでうぃすか!?」
「やかましいニャン」
ぐしゃぐしゃに丸まった、アルミの包装。寝転がったまま、ジバニャンがゴミ箱に向かってそれを放る。
「……あーあ、外れたニャン。……ケータ、それ取ってニャン!」
「えー、自分でやってよー」
「ケータのが近いニャン」
ジバニャンが仰向けになって、だらしなく口を開ける。それに目線もやらないで、ケータはベッドに頬杖をついてマンガをめくっている。ジバニャンは今日のぶんのチョコボーをもう食べきってしまって、ザクザク食べていたお菓子の音はもうしない。ケータがページをめくる音、時々漏れる笑い声。部屋の真ん中でふわふわ漂いながら、ウィスパーはそれを聞いていた。
「ケータ、そろそろ寝るニャン?」
その言葉につられたのか、ケータがあくびを漏らした。
「うーん、そろそろかなぁ……って、ウィスパー?どこ行くの?」
「……お散歩でうぃす」
いつも、わざわざウィスパーは窓を開けて出ていく。そして外に出きったあとに、窓を閉めて、窓ガラスに手を突っ込んで、鍵を閉めてどこかに消えていく。ケータはそれを不思議に思っているけれど、未だに尋ねたことはなかった。なんでかも、どこに行くのかも。
「……ねえ、ウィスパー」
「なんでうぃすか?」
「オレも、ついていっていい?」
言いよどんで、返ってこない返事。
知っている。ケータが夜出歩くことを、ウィスパーは喜ばない。妖怪さがしや妖怪退治でやむを得ないときは仕方ないけれど、そのほかは、断固として外に出すことはない。
はっきりと言われたことはないけれど、そのくらいは、ケータでも気がつくのだ。
だから意外だった。
「……ええ、いいですよ。ただし、そんなに遅くはなりませんからね」
お母さんに気が付かれないように、それでもはしゃぐみたいに声を抑えてうんと返事をして、パジャマの上からパーカーを羽織って、玄関に向かうとウィスパーはうしろからついてくる。
いってらっしゃいニャン、ジバニャンが、寝転がる腹を掻きながら言った。
窓から出ていけばよかったのに、こういうときウィスパーはいつも、ケータのうしろを飛んでくる。
サンダルをひっかけて、ケータが玄関から1歩を踏み出すと、夜の冷たい空気が頬をなでた。思わずパーカーをぎゅっと引き寄せた。

ここのところ、毎日。今日は何日目だろうと、ケータは数えようとする。きのう、おととい、そのまえ、またそのまえ、……少なくとも1週間は。ウィスパーはケータが眠った後に、どこかに姿を消している。
いつもとはちがって、ウィスパーの背中を見ながら、よく知る町並みを歩いていく。
……まあ、知ってるんだけどね、出かけてるの。
まだどこかで目覚めていて、けれどもまどろみの中で目を閉じるころ。閉じかけた薄いまぶたの向こうで、ウィスパーがいなくなる。
かすかな、窓が開く音を聞いている。
いつもこんなふうに、夜の町を歩いているのだろうか。
「ウィスパー」
「うぃす?」
「……どこ行くの?」
「とくに宛はないでうぃす。適当に……思うままに……ふらふらと」
ふりむいて答えるウィスパーは、間の抜けた、いつもの顔だ。怒っているときもなぜか吹き出しそうになってしまう、とぼけた顔。
でもたぶん、本気で怒ったらすごくこわい。いつも怒らないぶん、よけいに。
いつもさわがしいウィスパー、こういう落ち着いた、陰があるようなウィスパー、ケータはまだウィスパーを、根本的には、よく知らない。ただ、ウィスパーがなにも言わないから、ケータもなにも言わない。黙って2人で歩いている。ウィスパーの過去もなにも聞かないまま、ケータはウィスパーと暮らしている。
「……眠れないから?」
ウィスパーが瞬きをして、ケータの隣に並んだ。が、ケータのほうは見もしないで、道路の伸びる先、まっすぐ前を見て歩いていく。ゆるやかに空中を滑っていく。
「……そう、でうぃすね」
ただそれだけ言った。直後、訪れる沈黙。
歩いてきてどれくらい経った?5分かも、15分かも、でも30分にも感じられる。
今まで、ウィスパーと二人でいてこんなに静かなことがあっただろうか。
口を開いて、また閉じる。ケータはなにも知らない、ウィスパーについて。尋ねることもできない。軽口をたたいてぎゃーぎゃーわめくことはできるのに、それだけ近くにいて、なにも聞くことができない。
興味はある。知りたいと思う。でもなんで聞けないのだろうと考えたら、それだけで、不安になる。
深くかかわるのが、怖い。入り込んでいってしまうのが。そしたらたぶん引き返せなくなる。でも、突っ込んでいってしまいたいとも思う。
でも。なにも知らないで、曖昧に避けて、なにも知らないまま、そのまま、いつかいなくなってしまったら?
そっちのほうが怖い。
「どうして、眠れないの?」
横に並ぶウィスパーが、しっぽをうごめかせる。
「そうでうぃすねえ、……」
短い言葉のあとの、隙間にケータはどきっとする。そうだ、尋ねて、拒絶されるのがなにより怖い。
「……ワタクシには、もともと睡眠なんていらなかったんですよ」
「え?」
「……封印されて、あそこに閉じ込められる前は、寝る必要なんてなかったんです。ただ、長いあいだあんな狭いところにいるとですね、寝るくらいしないと退屈でして……。そしたら、ケータくんが外に出してくれてからも習慣付いちゃったんでうぃす、寝るのが」
驚きながらも、ケータは内心胸をなでおろしていた。話してくれた。微妙な言葉ではぐらかされたり、いつやってくるかわからないいつかを約束されたりもしなかった。
「そうなんだ……」
でも、妖怪と人間の、ウィスパーと自分の間にある大きな違いを、痛感する。
オレが生まれる前から、ウィスパーはずっとずっと生きてる。たぶん、オレがいなくなったあとも、ずっとずっと生きてる。生きてる?少なくとも、ずっとずっとそこにいる。
ちょっとだけ、でもひどく、寂しい。
「でも最近、妖怪としてずっと活動していたからでしょうかね、だんだん、眠るってことから離れていってるんでうぃすよ」
好きだったんですけどねえ、眠るの。
ウィスパーがふいに立ち止まった。
「……さて、そろそろ帰りましょうか、ケータくん」
もう、夜の町を歩くには、ケータは薄着すぎたようだ。
「……うん」
ケータも足を止めて、腕をさする。
「ねえウィスパー」
「なんでぃすか?」
それから、手を差し出した。
「手、繋いで帰ろうよ」
ウィスパーはすぐには答えない。実際には、そんなに長い空白ではなかった。でもケータにとっては、息がつまりそうなくらい。
「ワタクシの手、冷たいでうぃすよ」
「いいから、ほら!」
ちょっと心配そうな顔。持ち上げられた両手の片っぽをぎゅっとつかんで、ケータは先にずんずん歩く。
「ウィスパー、だいじょうぶだよ」
「うぃす?」
「眠れなくたって、ウィスパーとちゃんと手もつなげるし、ハリセンで叩けば気持ちいいくらい吹っ飛んでくし、おいしいものをつまみ食いだってするし、……」
手を握る力が、強まる。
「だから、ほら、ねえウィスパー、だいじょうぶだよ」
「……はい」


帰ってくると、ジバニャンはもう眠っていた。
ケータのかわりを頼んだバクは、ケータが戻ってくると少しして、静かに帰っていった。相変わらず口数は多くないけれど、なにもかも見透かされているみたいだ。ありがとうというと、役に立てたならこっちも嬉しいよ、と答えた。嫌な顔ひとつしないで、ちょっと申し訳なく思っているケータはそれで安堵する。
ジバニャンのしっぽだけがゆらゆら揺れている。
さっきまで中に人がいたとわかる、ベッドに潜り込む。
ウィスパーは静かに、部屋のすみで漂っていた。カーテンごしの窓からの光、逆光で輪郭だけが見える。
「……ウィスパー、一緒に寝ようよ」
ほら、とかけぶとんを持ち上げる。
「……では、お言葉に甘えて」
ウィスパーがベッドに入ったのを確認して、ケータがふとんを持ち上げるのをやめる。
そのかわりに、ウィスパー、と呼んで、腕を広げた。
「こうすれば、眠れるかもしれないでしょ」
ウィスパーがとまどうのもよそに、ぎゅっと、引き寄せた。ほんのりと冷たい。でも、心地いい弾力と温度。
「……おやすみ、ウィスパー」
「おやすみなさい、ケータくん」
ウィスパーはちゃんと、寝られるのかな。
まだ目が開いているのが、少しだけ見える。腕の力をちょっとだけ強くした。でもベッドのなかの空気のあたたかさに浮かされて、すぐケータは眠くなってくる。
ウィスパー、オレが寝たあとにベッドからいなくなってたら、怒るんだからね。

つぎの日ケータは、すぐそばから聞こえてくるウィスパーのいびきで目を覚ました。
アイマスク、もういらないでしょ?
だから、ヒキコウモリにあげることにした。

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