小説C

□色付くセピア
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カヲルくんが傘を持って走ってくるのが見えた。
「びしょびしょじゃないか、どうしたんだい?」
開いたばかりの傘を半分、いや、それ以上差し出してくれながら、カヲルくんがたずねる。
カヲルくんは傘を差していなかった。傘を閉じたまま、僕のところに走って来てくれた。制服のまま、雨に降られて。
申し訳ないと思う。けれど、なのに、ひょっとするとそれ以上に、嬉しい。
すがりつきたくなる。
雨粒が傘を叩く音。
カヲルくんは濡れている。肩から背中にかけて、雨に打たれ続けている。僕のために。僕のせいで。
傘の柄を握るカヲルくんの手に、追いすがるようにしがみついていた。
「ごめん」その手をカヲルくんに寄せるようにぐっと押しこみながら、耳元で、告げた。ほとんど声にならないまま。
頭に手が添えられる。しなやかで、大きくて、繊細で細やかなのにおおらかなカヲルくんの手。
優しい。どうしたんだい、と訊いてくれた。だいじょうぶ、じゃなくて。僕が平素でここにきたんじゃないってことをちゃんと分かってくれて、言葉をかけてくれる。
「きみが謝ることなんてない。雨なんて、僕にはほんの些細なことさ。シンジくんの支えになれるならこれほど嬉しいことはない」
そのまま肩口に額を押し付けると、濡れていた。
「ごめん、カヲルくん。ごめん、ごめん」
もうひとつ、手が背中にまわってくる。足に何かがぶつかった。傘が転がっている。雨が僕たちを打つ。制服のシャツがからだに張り付く。そのうえを、カヲルくんの手があやすようにさすった。
見上げると、赤い瞳と視線がぶつかる。すべてがセピアの悪天候のなかで、それだけが色づいている。それだけが僕をとらえてくれている。カヲルくんだけが。
身じろぎして、足元の水たまりが鳴った。
気がついたら嗚咽が漏れていた。
「ああ、シンジくん、きみは本当に繊細だ。僕は心配なんだよ、きみが壊れてしまわないか。できることなら、きみをずっと、僕の目の届くところに置いてしまいたい」
「カヲルくん」
「けれど、きみの自由を奪いたくはない」
「カヲルくん、僕は、きみのそばにいたいよ」
背中の手が離れるのを感じて束の間、カヲルくんの肩口を握りしめている僕の手にそれが重ねられる。
「嬉しいよ、シンジくん。僕はきみと……きみに出会うために生まれてきたんだ。きみのために僕はいるんだよ」
僕の髪を梳くように、カヲルくんが頭をなでてくれる。優しさに、なにかが溶かされるように、泣き声がこみあげてくる。
濡れた制服が、重たい。頬を、額を、鼻筋を、唇を、水滴が伝っていく。前髪から雨が落ちる。
「シンジくん、きみが僕に頼ってくれるのが嬉しいんだ。きみの力になれることが幸せでたまらないんだよ。シンジくんは僕の喜びそのものなんだ」
僕は卑怯だ。なんでこんなやつに、カヲルくんがこんなに優しくしてくれるのかわからない。けれどカヲルくんが、決して僕を拒絶しないんだろうと思ってしまうから、こうして僕はカヲルくんに甘えてしまうのだ。
「カヲルくん、僕はきみを、利用しているかもしれない」
「そんなことは関係ないよ。きみが、僕のそばにいる。大切なのはこれだけさ」
僕はこどもに戻って、ひたすらに泣きじゃくる。あたたかなお母さんのなか、生ぬるい胎内でうずくまっているように感じる。
いつまでも膝を抱えていたくなる。
寒くはなかった。僕の手を握ってくれているカヲルくんの手を、いつもほど冷たく感じないけれど。皮膚に覆われた、無機質なかたまり。手のひらの感覚が薄れてきて、まるで自分の手がゴムにでもなったみたいに感じる。でもカヲルくんの手は綺麗だ。
怖いのは、カヲルくんが、いつまでもこうして僕と雨に濡れていてくれるんじゃないかとさえ思えてしまうことだ。
僕がここですすり泣く限り、いつまででも。

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