小説C

□身を投げる
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ボク、夢見てるんだ。
苗木は自分の手のひらを見つめた。なんだか体が軽くて、それなのに、どこかだるい。開いて、閉じて。なんだか力が入らない気がする。
どきどきする。
コンクリートに白線が引かれている。苗木を照らすのはか細い蛍光灯だけで、それすら時々チカチカと瞬く。たぶん地下の駐車場。車は一台も停まっていなかった。歩き出してみる。足音だけが響いた。
AとかGとか、区分分けの標識がところどころ立っている。駐車場の空き具合を表示するちいさな電光掲示板には、全部赤い字で『満車』と書かれている。
10分くらい歩いて、HとJを過ぎたKのところ、エレベーターを見つけた。前に立ってみても作動している気配はなく、それに、上の階数ランプはついていないし、ボタンを押してみても、動かない。
どうしよう。
周りを見渡すと、エレベーターの左、わずかな明かりが漏れて階段につづく入口があるのがわかった。
「だいじょうぶかな……」
新しい場所に足を踏み出そうとして、少しの恐怖と怯えが舞い上がる。
近ごろ毎晩のように夢を見てはいたけれど、夢だと分かるのは初めてだった。不思議な感覚。
空を飛べやしないだろうかと思いついて、目を閉じ腕を広げ、「飛べ、飛ぶんだ苗木誠」意識を集中させてはみたけれど、五秒、十五秒待っても体は浮き上がらない。ふと我に帰るとばかげた行動が恥ずかしくなって、あわてて目を開け腕を下ろした。
「よし……」
少し気がほぐれた。
正面に回って、階段口をのぞき込む。白く照らされている階段をはさむ狭い通路、互い違いに繰り返される上り階段、それだけ。
物音一つしない。
足を前に出す。特になにも起こらない。ほう、と軽く息を押し出して、一段、上った。
コンクリートの床を歩いていたときとは違う少し丸みのある音が、階段を上る度に響いていく。鉄製の手すりが鈍く光って、手のひらを這わせると、冷たい。上りきって、一つ目の踊り場。どこもかしこも真っ白で、窓一つない。ただ少し、くすんでいる。
踊り場を十は越えたところ、苗木は頭がおかしくなりそうだ、と思った。真っ白、どこまで行っても。あたたかみの一片すらない、単調な空間をいつまで歩けばいいのか。
またひとつ上り終えた。けれど足は止めない。一度立ち止まってしまったら、もう二度と再び歩み始められない気がしていた。
そもそもなぜボクは進んでいるんだ?
苗木は階段の段数を数え始める。一段、二段、三段……全部で二十三段。
また初めから。やはり変わらず、二十三段だった。
どこまで続いているのかすらわからない。引き返すという選択肢も頭を掠めたが、すぐさま苗木は振り払った。
これだけ上ってきて、引き返す?帰り道だって空しいし、それに何だか、たどり着かなきゃいけない気がする。
体は重いし、息も切れてくる。足が鈍い。思ったより足が上がりきらなかったようで、けっつまずいた。もう片方の足で、あわてて前に着地する。
「……まだ、目は覚めないのかな」
首筋を手のひらで拭った。


今苗木は扉の前に立っている。
頑丈そうに見える鉄の扉。
終わりなんてないのかと思いかけた矢先だった。もう座り込んでしまおうかと心を挫く矢先だった。鼓動が、速まった。慢性的なリズムじゃなく、突発的な、重苦しい鼓動。
ドアノブを掴む。息を大きく吸って、吐いて、止めた。手に力を込める。質量を感じる。自分の体ごと手前に引いた。わずかな光が、差した。
その後ろ姿には見覚えがあった。扉の先、手すりに囲まれた屋上、そこにもたれるダークグリーンがはためく。曇り空に溶けそうな、やわらかな白も風に揺れていた。
ゆっくりと、振り向く。
暗い、でも光を宿した目が苗木を見つめた。
「……苗木クン」
ボクは、キミに会うためにここまで来たんだ。
たかが夢だと笑うこともできたし、こんなのはなんの意味もない、目を覚ませば消える幻だと断じることもできるのに。
本当に、本ものの彼が会いに来たように思えてならない。
「狛枝クン……」
狛枝は自分の隣を手で示す。
「ここ、おいでよ」
昔と変わらない微笑みだった。
狛枝の隣で鉄柵に身を預けると、どこか懐かしく過去に思いをはせてしまう。風に乗って、狛枝のにおいが流れていく。見上げると、苗木の目線を感じたのか、視線がぶつかった。
「……元気だった?」
どこか気まずくそう尋ねると、狛枝は笑う。
「相変わらず変だね、苗木クンは」
「そ……そうかな?」
そのとき、狛枝の笑みがふと消えた。
「……どのくらい上ってきたの?」
「え?」
「階段だよ」
思い起こしてみる。二十は上った。けれど百を超えるかと訊かれると、自信はない。首をひねっているうち、狛枝が呟いた。
「……一万千三十七だよ」
「一万千三十七?」
まさか、と笑おうとしたけれど、狛枝の表情がどこか真剣で、憂いを帯びていて、苗木の笑顔も呑まれてしまった。
「ほら、高いでしょ」
見下ろせば、何も見えない。二人が立っている建物はまさにそびえたつように高く、どこか幻想的ですらあって、窓一つなく真っ白なさまはなぜか浮世離れしたような。
「雲を突っ切りそうな勢いなんだ」
狛枝はさしてどうでもいいというふうに笑ったが、苗木は言葉を失っていた。
「まるで自分が鳥になったみたいな、そんなふうに錯覚するよ」
そのあと彼は頭上、曇天を見上げて、そんなわけないのにね、と唇を歪めた。
「ねえ、苗木クン」
返事をしようとしたのに、喉が掠れた。代わりに見つめて目線で応えた。
「……ここから、飛び降りない?」
「えっ?」
聞き間違いじゃないのか、狛枝にはそういう意味に捉えられたのかもしれない。
「ここから飛び降りないか、って言ったんだよ」
だが、苗木にはきちんと伝わっていた。二回聞いたうちのいずれも、狛枝の言ったとおりの意味に聞こえていた。
「飛び降りるって、本気なの、狛枝クン」
「もちろん。ボクはね、苗木クン」
苗木に向き直る。かつては見られなかったまっすぐな目線が、痛いようだった。
「キミと死にたいんだ」
つい目を逸らした。
怖くない。底知れなくない。恐ろしくない。
そう思って目線を外したのではなかった。
苗木もそう思ってしまったから。
ここで狛枝と二人、永遠とも一瞬ともとれる時間の中、落ちていけたらどれだけ甘美で背徳的だろうかと。
手すりを握る手のひらが汗ばみ、握ると滑った。口が乾いた。唾液が、ほしかった。
「よさそうだと、思わない?少なくともボクにとってはさ」
「狛枝クン」
「苗木クン、ボクのために、キミの希望を投げ出してくれないかい」
「希望を、捨ててしまっても、いいの」
「いいんだ。希望とか、絶望とか、そういうものがなにもないところに、ボクはキミと行きたいんだよ」
覚めるな、覚めるな、まだ覚めるな。拳を握る。せめて、彼とここから飛び降りるまで。
「ボクと一緒に、死んでくれるかい」
「……もちろん」
彼が、ボクと、死にたいって。苗木は内心、高揚した。死に戸惑いと恐怖を覚える裏腹で。だって、希望のために生きているはずの狛枝クンが、希望にまさるものはないはずの狛枝クンが。
「狛枝クン」呼びかけると、声が震えた。
「希望なんてどうだっていいから、ボクだってキミと死にたいんだ」
そう言って苗木が狛枝を見つめ返すと、その表情がやわらいだ。狛枝は、今まで誰にも見せたことがないくらい優しく、微笑んだ。
「じゃあ、行こうか。苗木クン」

一歩先は空白だ。なにがあって、なにがないのかわからない。真下に分厚く広がっているのは雲なのか、ただの無なのか。霞がかって、真っ白だ。今は背後の手すりを乗り越えたとき、腕が震えて崩れ落ちそうになった。が、今は落ち着いた。隣で、苗木の脇腹を抱いてくれている狛枝が、苗木の鼓動を安定させていた。
「ほんとうに、いいの、苗木クン」
「うん。……行こうよ、狛枝クン」
目が合う。押し込むように頷くと、狛枝がしっかりと、深く、首を振る代わりに口角を持ち上げた。
「じゃあ、目、閉じて」
瞼を下げると風の音だけが聞こえる。それから、狛枝が苗木を一層強く引き寄せて、布が擦れる音がした。迷うように身じろぎする狛枝、スニーカーがじゃり、と鳴って、落ちた。
空中でふわりと漂うように、一瞬、ほんのわずかだけ感じて、そこからは空気を切り裂くように落ちていく。気流が口にやわく蓋をする。その流れに必死に食らいついて瞼を持ち上げると、やっぱり、落ちていた。まわりには何もない、けれど、雲と霧を突っ切ってはまたそこに突っ込む。不思議と怖くはなくて、興奮でうわあ、と叫びそうになる、そのとき、狛枝が苗木のからだを強く抱いて、目を合わせて首を横に振った。
声を出すな、と言っている。
二人は腕を広げることもしないで、気流を体でつかまえようともしないで、ただ流れ星のように地面に引き寄せられていく。
唸るような豪風にさらされた手足は冷たく、せめぎあう空気の流れに引き裂かれそうになりながら、離れないように、かたく相手を引き寄せていた。
どのくらい落ちたのだろう。一瞬にも、永遠にも感じられた。白んでいた空は次第に青のグラデーションを描き始め、雲で閉ざされていた太陽が二人の背中を見つけた。一気に視界の霧が晴れ、大地が果てしなく遠くから、小さく二人を迎えた。緑はない、無骨な焦げ茶が広がるだけの地面が。時折爆発が巻き起こり、粉塵を散らすけれども、二人には遥か及ばない。二人から見れば遥か小さい。爆発なんかではなく、ただの土煙のように見えた。
大地が見えてくると、それがゆるやかに迫ってくるのもわかる。そして、それが自分で思っているより急速で凄まじいスピードだということを、苗木は知らない。
ボクたちは、落ちる。希望とか、絶望とか、そういうのがぶつかりあっている世界に、ただ苗木と狛枝として、二人だけで。
狛枝の腰にまわす腕に力がこもる。それに答えるみたいに、狛枝もまた、腕に力をこめた。さっきよりも体が密着して、狛枝の胸が暖かいのがわかった。
そう考えを馳せるあいだにも迫ってくる。ぐんっと近づいてくる。押し上げる風を胸元で受けて、また、背中を風に押し込められながら、ふたりのコートの、ジャケットの、裾がはためいた。
恐怖とも、興奮ともつかない感情が、足元からせり上がってくる。内蔵が、心臓から遠ざかっていくような感覚。自分の鼓動が際立って、鼓膜に直接心音が轟いてくる感じ。
死への恐怖と喜びを、同時に抱えている。目を閉じ狛枝の体温と感覚をすぐ傍らに感じるとき、苗木の心は喜びにさざめく。
目を開いて、だんだん視界を占めていく大地を目の当たりにするとき、死を遠くない未来に実感し、怯える。
けれどもはや避けられない。重力が、引力が、正しく、無慈悲に、二人を死へとみちびく。
二人にはあと一分残されていた。地面を鼻の先に見据えて、もはやその時には終わってしまうとして、苗木はそのとき、どっちなのだろうか。
希望と絶望。
もしそのとき苗木が希望を感じているとしたら、苗木はもう希望ではないのかもしれなかった。
目を覚ましたときに、狛枝がいさえすれば。
それだけで苗木にはよかったのに。

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