小説C

□寝顔がボクを出迎える
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彼はいつも眠っている。だいたい真夜中にボクがいつも帰ってきて、換気扇のちかくのぼんやりとしたランプの下で水を飲んで、ネクタイをほどきながらクローゼットを開いて、かすかなきしむ音がするけれど目を覚まさない。見下ろすボクの背後、薄ら明るい光が彼の頬をちょっとだけ浮き上がらせて、立ち尽くすボクの影が枕元に差し込む。生白い。
明かりを消して、壁に手を添わせる。
手探りで洗面所までをたどっていく。ボクたちの部屋には物が少なくて、お互い持ち寄るものもほとんどなくて、共通の思い出とか、残しておきたい記憶とか、そういったものが。消したい記憶はあったけれど忘れてはいけなかった。細部まで形を留めておかねばならなかった。
彼はもともと煩雑な雰囲気が嫌いだったから都合がいいのかもしれなかった。
なにもない廊下。障害物に突き当たることなくシャワールームにたどりつく。手のひらがドアノブを探り当てる。ひねるとあっさりと開いた。なんのミスもなく。
なぜだか安心する。
電気が、無機質に灯る。なんの抑揚もない質素な明かりが浴室を照らす。ボクはワイシャツのボタンを外しはじめる。
硬くなった指先でボタンを押し込んでいく。肩から少しだけくたびれたシャツが滑り落ちると、冷えた空気に露出した肩がすっとする。洗面台に備え付けてある鏡、そこから、ノースリーブに着られたボクが疲れた目をしてこっちを見ていた。
わずかに隈が浮かんでいる。まぶたが上がりきらずに荒んでいるように見える。目の奥がかすんできつく目を閉じる。うなだれてため息をつき、勢いよく肌着に手をかけた。

シャワーを止める。ボクを囲う、湯の張られていないバスタブの淵に置いてあるシャンプーの蓋を閉めた。濡れた前髪をかきあげた腕、ひじがカーテンに触れた。冷たい水滴が伝い落ちる。ボクの体から滴る水がたいてい流れ終えるのを見てカーテンを開けて、バスマットへと乗り越えた。頭を乱雑にタオルで拭う。ふと鏡と目が合う。
乱れた髪、落ちる雫、その奥の疲れた目。まぶたをタオルでおさえると真っ暗になる。向こうがわに冷ややかな明かりが待ち構えているのがわかる暗黒。タオルをどかし、目を開けると、かすんだ。
ごわごわした部屋着に手を通す。まるで患者が着るような質素なものが一人3着支給される。これをひと月保たせなければならない。淡いブルー。血の色が映えそうだと思う。今日は二人撃った。持っていたのが麻酔銃でよかった。咄嗟で急所を外せなかったから。倒れた彼らを見て、当たり前だけど死んでいないとわかった。肢体を見ただけで死んだかどうか、たいてい分かるようになった。
けれど、麻酔弾の針が刺さったところは鬱血して痛々しくてまだ見慣れない。
彼らの処置を決めるのは霧切さんだ。彼女が担当になってから処分される絶望が三割減ったという噂がまことしやかに流れている。減少の傾向にあるのは確かだ。新人とはいえ、あの絶望的事件の当事者ないし生き残りとしての風格を彼女は隠さない。
そのせいでいい顔をしない人たちが少しだけいるのも、ボクは知っている。その矛先はたいてい彼女単体ではなくて、ボクたちに向くからだ。
前髪から水滴が滴る。腰掛けたベッドにシミをつくる。それがじわりとシーツに広がるのを見届け、ふと見上げると彼の背中がボクに向いていた。二つ並びのベッド、彼は壁際。彼がボクのほうに寝顔を晒すことはあまりない。
二つのベッドの間にあるランプ、今はその彼の側にバインダーを立てかけて、そっちに行く光を遮っている。それでもわずかに明かりが漏れてしまって、枕元の眼鏡が少しだけ光る。
それでも彼は目を覚まさない。
明るい髪色は薄ら暗くても目を引く。ボクはゆっくり立ち上がったけれど、ほんの少しスプリングがきしむ音がした。二、三歩進めば彼のベッドの縁に脚が触れる。光をさえぎるボクの背が、一層あたりを暗くした。
手を伸ばしてしまった。こわばった指先が彼の髪を掬おうとして、止まった。触れずにひっこめた。体の横で一瞬だけだらりと垂れて、拳に力が入った。
見下ろす彼の横顔に覆い被さるボクの影を厭わずに、彼は眠りつづけている、彼がボクの前で寝息を立てている。今ならボクは、彼を殺してしまえるかもしれない。
彼は目を覚まさない。

うっすらとした朝日で目が開いた。ボクは、ひとりで目を覚ます。隣のベッドはすでに空で、ある程度に整えられていて、人間の名残は感じさせない。早くあがるぶん彼は早く出る。
そして彼は、むこうでやがて二杯のコーヒーを淹れる。一杯をボクの机に置いておく。ボクが遅れてやってくると、それはほどよく温かい、ボクが好きな熱さ。
ボクはいつもデスクに座って、カップに口をつけて、一口だけ飲み下す。それからいくつかの机ごしに彼を見て、彼もこっちを見ていて、ボクはカップを持ち上げて笑いかける。彼はなにも言わないで、飲み終えた自分のコーヒーカップを下げに行くのに立ち上がる。ボクの机はその途中にある。
ベッドから気だるい身を起こす。彼が開けていかなかったカーテンはボクが起きてから初めて開かれる。重い空は滅多に晴れない。
ボクは顔を洗いに洗面所に向かう。
そのあとに、コーヒーは飲まないで部屋を出る。

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