小説C

□電子的臨床実験
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どうして。
ただ息が掠れた。唇が震えた。目の奥が熱くなってくるのがわかった。苗木が、指先でそっと十神の頬にかかった髪をどかす。弾力のない肌、抵抗のない肢体は力を加えるとすぐそのとおりに作用した。皮膚の下に骨があるということが、すぐにわかった。
想像できない。なぜ彼が、自ら毒薬をあおって地に臥しているのか。
けれども彼は死体だ。
紫黒く変わりつつある唇に、指を沿わす。こわばって、ぎこちなかった、もう開かない、青白い肌にいっそう際立つ。冷たかった。
後頭部に手をそえる。ただ持ち上がる。首が座っていなかった。手のひらに押し付けられる髪の束、頑なだった。
伏せられた、ただ伏せられているように見える、彼の目はくすんでいる。長い睫毛。たまらず、苗木は唇を噛んだ。
彼も、毒を取り込む苦しみにのたうちまわったのだろうか。喉の奥が詰まるように焼ける痛みに胸元を掻き抱いたのか。とても、苗木には想像がつかない。わずかに開き、萎縮した口もと、十神の歯列はうかがえない。唇の隙間、くらがりのなかに、わずかに赤みの面影をのこす粘膜の影、舌の輪郭だけが覗いた。苗木は息を吸い込むのを止めて、弾力のない彼の唇をそっと指先でなぞり、口内に指を少しだけ押し入れた。震える人差し指の腹、十神の歯が、乾いた舌が、わかった。
苗木は、今もなお唾液で湿る自分の舌が、潤む瞳が、おぞましい。行われる生理現象の数々が、今の十神にはもうないものが、おそろしい。罪悪感にひどく駆られた。握りしめた指先の熱、せめて手だけでも冷えていればよかったのにと思った。
苗木は、かぶりを振る。
固く目を瞑り、再び開いたそれらは悲痛にゆがんだが、諦観をも匂わせる涙の光、雫は落ちずにとどまる。そっと手を下ろし、十神の頭は地面に預けた。手のひらには苗木の体温だけが、今にも先にも残って消えない。
熱かった。
苗木が、十神のジャケットのボタンに手をかける。ひとつひとつ外していく。だらりと垂れ下がる両腕、片方ずつ持ち上げて袖を脱がす。ワイシャツだけになった純白、きっちり閉まったクロスタイ、上下しない。苗木は、それを指先でほどいて、ワイシャツのボタンを、ひとつ、ふたつ、外した。そうしてはだけた胸元を見やったまま、シャツごし、十神の下腹部をそっとなでた。
吐血の痕跡はない。頭部、胸部、腹部にも外傷はない。綺麗すぎるわ。霧切の言葉を頭の中で反復する。
綺麗すぎて、自殺に偽装された他殺を疑うことができないくらいに。
だけど。
苗木は手のひらをかざして、十神のまぶたを閉じようとする。けれど、冷たい顔面に押し付けた手のひら、ここで閉じてしまったら、もう二度と見られないと悟った。
だけどあなたは、十神くんが自殺だなんて信じる気はないんでしょう。
目の奥、いっそう、熱をもつ。どうしたらいいかわからなくなった。これ以上死体を調べたって、苗木にはどうしようもない。検死の技術があるわけでもない。それも、霧切がもう、すべて済ませた。
苗木にはなにもできない。十神のためにできることは、もはや何一つなかった。
じっと見つめてしまう。そうして、吐きそうになった。
死体。十神くんの、死体。
そのものがおぞましいわけではなかった。彼が死んだという事実。もうここにいないということ。それに、なんの手も打てないということ。それらが、苗木の胸を詰まらせた。苦しくて、苗木は一度限界まで息を吐き込んで、吸った。そのまま呼吸を止める。シャツのボタンをまた、戻していく。一番上のボタンまで閉めたら苦しいだろうか、もはやそんなことを気にする必要はないのだとちらとよぎったけれど、苗木は結局ボタンはひとつを開けたままにしておいた。
彼を、死体だと割り切れてしまう自分の薄情さ、それをひどく非難する自分もまた、独善的でバカらしいんじゃないか、クロスタイのピン、うまく留まらない。止めていた息を吐き出した。クラクラした。喉の奥が疼いた。
彼が死んでいるのはもうどうしようもない事実なのだから。引きずっていくっていうのは、そのことをまっすぐ見つめることなんじゃないのか?
重い。みんなを引きずっていく、手のひらでつかんで引っぱる、その摩擦、質量。ひしひしと感じる。背後にぐちゃぐちゃになって横たわるそれらは、重い。
ただ、そのぶんだけ、わかるから。自分が進んできたということが、まだ忘れていないということが。乗り越えることはある意味忘れることだ。苗木は今、その道の上にいない。
否が応でも忘れられない。もしかしたら、引きずっていかねばならないそれらに縛られるかもしれない。けれど苗木は進むしかなかった。
十神は死んだ。死んでしまったのだ。
今さらそれを、遠まわしな言葉で煙に巻いてどうする?倫理を笠に着て、どうする。
彼は死体なのだ。
薄ら寒い植物庭園、汗をかいた額を手のひらで拭う。嫌な汗だった。もう一度こころみると、クロスタイは易々と留まった。ジャケットの袖を片方ずつ、腕を持ち上げて通す。最後に、ジャケットのボタンを全部留めた。
膝に力をこめる。立ち上がろうとしたが、ずっとかがみこんでいたから、足がしびれた。手を膝についてぐっと押し込んで、ようやく立ち上がると、苗木の影が、十神に落ちた。
「十神クン」
返事を期待していたわけではなかった。
「ボクは、かならず、キミの死の真相を解き明かす」
けれど、返ってこない返事が、苗木の眉を険しくした。
「そうして、キミのことを、絶対に忘れない」
背を向けるのに時間がかかった。苗木が扉へ振り向くときに、十神の薄暗い双眸と一瞬だけ目が合って、動きが止まってしまった。それを、振り切るように、目を背けた。
「苗木」
それなのに、またはっと振り向くはめになった。そこには黒いスーツの、体格はしっかりした、茶髪の青年が立っていた。十神の死体の向こうに。
「……もういいよ。苗木」
彼はそのまま歩み寄ってくる。十神の死体を目もくれないで跨ぐ。苗木はそれに憤慨したが、その間もなく彼は、苗木を引き寄せた。
「もういいよ、もういいんだ、苗木」
耳元でささやかれた。
「だってもう……ツマラナイから」

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