小説C

□枯れない彼岸花
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だって、と吐き出した声は震えていた。
「それなりの付き合いですから」
すこし、微笑まれるのを感じる。ゆるやかに上がる口角。けれど、目は正直だ。いつもこざっぱりしていて、実直さが滲む目が、今は猜疑でくっきりと、鈍い。
「……俺は、」やっとのこと口に出す。「中学のときから先輩のこと、知ってるし」
瞬きしたのがわかる。ゆっくりと。審査するように。「先輩が、人並みに悩んだり、見栄はったり、嫉妬したり、そういうの全部知ってるから」
顔を上げる。先輩に表情はなく、そのぶん疑いも消えていた。真剣だった。たわ言と取り合われなかったさっきまでとは既に違った。取り繕わなくてもいいと思われ始めたのだ、と思った。
「……だから俺は、先輩のこと好きにならないよ」
名前を呼ばれる。「……狩屋」いつもの先輩だった。
「本当に?」
「本当に」
「俺のこと、特別だって思わない?」
「思わないよ」
先輩の声が震え始めた。先輩は眉を一瞬悲痛そうにゆがめて、それは何より先輩自身が特別でいることを望ましく思っているからだけれど、そこに安堵を見いだす。
整った容姿、成績は良く、運動も得意で、サッカー部でも頼りにされている、生徒会副会長の二年生枠をつとめ、来年は生徒会長になるとも期待されている、先輩。
それは、すべて先輩の見えない努力で成り立っているのだった。
模倣と言ったほうが正しかった。
俺の中では、先輩は脳ではなかった。どちらかといえば肝臓とか、腎臓とか。表立ってはいないけれどなくてはいけないような存在だった。中枢に活きるフィードバックはするけれど。DFというポジションからしてそういう役割を担っていた気さえしていた。のに。
「俺はみんなの特別な生徒でいなきゃいけないけど」
とそれだけ言うと先輩の目が冴えた。まぶたを固く閉じてその目を隠すと、先輩はとても弱々しく、か細かった。「少し、疲れる」
「……泣いたらいいんじゃないですか?」
あの人も泣き虫だったんだから。「そのくらい許されるでしょう」
「泣けないよ」と先輩は窓に寄りかかる。その顔に半分、影が落ちた。「俺、涙って全然出てこないから」
「そうでしょうね」あんたが泣いたの見たことないもん。先輩はその代わり、泣けもしない自分も悔しくて、ただうつむいて拳を握る。
どんだけ真似ようと頑張ったって、根本のところでどうせ違うんだから、そんなのやめたらいいのに。
(俺は先輩には先輩のままでいてほしかった。俺が代わりになるなんて言って、あんたにだって代わりなんていないのに。)
なんて言ったら先輩は失望するだろう。狩屋も他の奴と変わらない、綺麗事しか頭に無いんだって。
死んだ人間の代わりになるなんて方がよっぽど綺麗事だよ。
「でも俺、今の自分、好きなんだ」
「どうして」
「あいつの事が好きだったから。あいつみたいになれてる自分は好き」
「なるために必死に頑張ってるのに?」
「……狩屋の前では、やんなくていい?」
俺のこと特別に思わないなら。
「今更何言ってんですか。散々弱音吐いといてさ」
懐かしい笑い声が耳を打った。「厳しいなぁ」
俺にだけこうやって笑ってくれるから、弱音を零してくれるから、このままでいようかなんて浅ましい。
でも、嫌われるのは、怖いから。
「俺、最近ピアノ始めたんだよ」
「……へえ、どうしたんです?」ゾッとした。
「どんな気持ちでピアノ弾いてたんだろうって思ってさ」
先輩は指先をみつめる。「あいつがあれだけ入れ込んでたことだから、ちょっとやってみたくなっただけ。教室とか通ってる訳じゃないけどさ」
「ふーん、そうなんだ。聞かせてくださいよ」
茶化すみたいに言うと、先輩はくしゃっと笑う。
「下手でも笑うなよ?」
「それは、わかんないですけど」
「はは。じゃあ、音楽室行こ」
一階上がった突き当たりの教室。最上階の端っこ。吹奏楽部ももう終わって誰もいない。ピアノと、それに向かって並ぶ放射状の机。ピアノの蓋を開けて腰掛けても、先輩は先輩に見えた。
(……当たり前だよ)
響くみたいな音が一つ鳴る。
「簡単なのしか弾けないけど」
「……どーぞ」と適当な席に適当に座った。
先輩がしばらく鍵盤を見下ろしたと思うと曲が鳴り始めた。和音とか、アルペジオとか、よく分からないけど短調の曲だった。たぶん独学で始めたにしては上手くて、俺はちょっと聞き入ってしまって、それが悲しかった。
歌で言うラスサビの繰り返しみたいなところに入って、悲しげでも悲壮ではないみたいな澄んだ高音がちょっと上下して、終わった。たぶん歌詞がついてたら、別れは悲しいけど前を向くよみたいな歌。
「……どうだった?」
弾き終わるともう暗くなっていて、ピアノに座る先輩の顔がよく見えなくて、怖かった。
「……へたくそ。」


帰り道に天馬くんに会う。
「狩屋!霧野先輩!」
後ろから呼び止められて走ってくる。
「お久しぶりです!ずいぶん遅いんですね。俺は補習だったんだけど……」
恥ずかしそうに頭を掻くのを見ると、変わらないなと思う。
「……ピアノの練習。」
とそっけなく言ってやる。霧野先輩がたじろぐのが後ろからでも分かった。
「……ピアノって、霧野先輩がですか?」
先輩はなにも言わない。そうだよ、と俺が短く返すと天馬くんの目が見開かれる。
「だって……それじゃ、まるで……」
もっと言って、と密かに願う。天馬くんならたぶん口に出してくれると思った。
「天馬」と短く呼んだ先輩の声は変わらなかった。
「……最近寒いから、風邪、気をつけろよ」
行こう、と振り向かれたときの先輩の顔、優しくて、罪悪感すら滲ませる笑顔が、すごく先輩らしかった。
そうだよ、あんたこういう人だったじゃんか。
そのまま歩き出すから、ついていく。天馬くんじゃあね、と早足で後を追う。
「……霧野先輩!」
振り向くと目が合う。うなずいて見せた。
「……おれ、どんな霧野先輩でも、尊敬してますから!霧野先輩は、誰の代わりにもなれないし、霧野先輩の代わりだって、……いません」
先輩を見るのが怖かった。息をする音だけが聞こえて、それが少しやんだと思うと、天馬、と静かに聞こえた。
「……俺、来年は生徒会長に立候補するから。たぶんあいつもそうしただろうから」
じゃあな、と聞こえた。立ち尽くしてしまった。天馬くんが狩屋、と呼びかけたところで別の声に呼ばれる。「狩屋」
ごめん、と思った。もう行かなきゃ。
何を言ってもたぶん、先輩は誰かを嫌ったりはしないだろう。でも俺は、先輩の特別でいたいから。
誰も特別に思わない俺を、先輩が特別に思ってくれるなら、俺はそんなの何でもないって顔してそばにいられるから、だからごめんね。
今行きます、と声を張り上げるとなんとかやっていける気がした。
じゃあね、天馬くん。

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