小説C

□走馬灯
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合鍵を使って、苗木の部屋に足を踏み入れた。
薄ら寒くて、血の臭いがした。もう少し奥に入って、江ノ島は部屋の内側にぐるりと視線をめぐらす。最初に斬りかかった包丁の跡が、生々しく白い壁紙を抉っている。そうだ、あっけない攻防ではなかった、きっと。
死にかけているみたいな形相で舞園は包丁を振り上げて、後ずさった背中にぶつかった模擬刀で、桑田は咄嗟に受け止めて。死にかけていたのは桑田のほうだった。あれ、でも、このとき死にかけてたのって桑田と舞園どっちなんだろ。
そこだけ見逃してしまったそのシーンを江ノ島は想像する。
でもまあどっちにしろ、床にまで切り傷がつくんだからよっぽどよね。
江ノ島はそのとき食堂に潜ませていたモノクマを操作していて、幾ばくか前舞園が包丁を取りに来た一部始終は見ていたのだけど、厨房が無人になったところで食材を交換したりなんだりしているうちに、それ、は始まっていた。
気がついたのは、舞園が二度目の包丁を振り上げるときだった。開け放してあったモノクマのドアの向こう、モニターから金属がぶつかりあう鋭い音がしたから、江ノ島は操作途中のモノクマを放り出してそっちに振り向いた。
桑田はのけぞり鞘ごとの模擬刀を……まるで誰かに捧げるみたいに……頭上で握っていたし、舞園は身を屈めたところから桑田の手元を見上げ目を見開いていた。
そしてその手には、鈍く輝く出刃包丁が握られていた。が、それはまた振り上げられて刃先が桑田を指し示し、その先の彼は言葉にならない叫びを上げて、舞園ちゃん、と、江ノ島はやっとそれだけ聞き取れた。
モニターの光がわずかに江ノ島の瞳に映り込む。眉が上がって、瞳孔が静かに広がって、江ノ島は黙ってそれを見つめた。
二振り目は空を切った。慌てて身を引いた桑田をかすりもしなかった。舞園の肩が上下してぎゅっと包丁の柄を握りこんだ時に、立ち尽くしていた桑田の手の中の、模擬刀の鞘が自然とずり落ちた。そのとき質量のあるごとりという音がして、ただでさえ動転していた舞園はそれにはっとして、三度凶器を振り上げる。
本人すら知らぬところで反撃の準備が整ってしまった模擬刀で、偶然だが桑田が、思いがけず包丁だけを打ち弾くことに成功した。きいん、と弾けて、回転していった刃が床に突き刺さる。舞園の足元から、そう遠くはなかった。
形勢、そうは言わないまでも流れが自分のものではなくなっていまったと、手の中にない凶器が声高に叫んでいる。舞園は錯乱しかけた。失敗した。殺される。
あ、あ、とただ力が抜ける声が漏れる。崩れ落ちそうになって、後ろに傾く体を支えきれずにあとずさった。
けれど桑田も動けず、瞳だけが揺れていた。握りしめる模擬刀の先は震えている。信じられなかったのだ、だって殺人なんて現実味がなくて、ニュースとかドラマの中だけの世界で。
そんなものを実感したことがなかったから。
しかも、あの、舞園さやかだ。それこそ、テレビの世界の住人の。
これってもしかして、ドラマの撮影なんじゃねーの。
殺される。その言葉がまだ、重くない。空っぽだ。江ノ島がすっと、目を細めた。あの『パレード』、暴動を経験してきた昔の彼らならともかく。
江ノ島は息を吸って、前髪に指を通して、膠着状態の今のうちに、広がるモニターを見渡して他の生徒の様子をチェックする。クラスメイトたちは思い思いに夜を過ごしていて、誰も気がつく気配は、ない。
舞園はへたりこんでしまっていた。桑田もまだ、動かない。
もはや殺されるのを待つしかないと、桑田を見上げることすらできないで俯き、足元から突き抜けていくような感覚がしていた。そのなかで、数歩動けば手に届く距離で、床から伸びる包丁の柄が自分のほうに向いているのを辛うじて見つけた。
震える腕が持ち上がる。舞園はもうそれしか見ていなかった。片手をついて前に乗り出し、腕をぎりぎりまで伸ばして、指先が持ち手のところをかすった。
桑田はなにもできなかった。動けずに、ただ見ていた。加害者が凶器を取り戻すのを傍観していた。加害者になるのと被害者になるので揺れていた。いや、まだ桑田の思考はそこまで至っていなくて、ただ単に死からのできうる限りの逃走が、死の魔の手を振り払いかき消す行為が怖かった。
きっとそれは、舞園が今していることだとどこかでわかっていたのだ。この空間の延長に、二人とも生きている未来があるとは思えなかった。
舞園はすでに包丁の柄を手のひらに包んでいた。あとは引き抜きさえすればよかった。だが力を込めても刃先が抜けきる気配はまったくなくて、柄がわずかに反動で動くだけだった。何度かそうして揺さぶっていると、少し、わずかに刃が浮き上がってくる。すると舞園は、崖に打った杭を支えに這い上がるみたいに、包丁に両手を添えて自分のほうに柄を引きはじめる、全体重をかけて。包丁はまるで彫刻刀のように床を削り、真っ直ぐな歪んだ線をひいていった。舞園のほうへ。包丁へと伸びきっていた舞園の腕が曲がっていき、引き寄せられていき、それに伴って包丁もまた進んでいった。
桑田はまだ自分をつき動かせずにいた、が、今や舞園は再び凶器を手にしたのだと思考が跳ねた。その瞬間には、衝動が彼の倫理観なんて吹き飛ばして桑田は模擬刀を振り上げている。叫びながら振り下ろしたそれは舞園の右手をまっすぐ打って、硬いものが砕ける感覚が、模擬刀ごしに鈍く伝わってきた。
そこで舞園も我に帰った。生まれてからずっとアテにしてきた利き手は、だらりと手首から垂れ下がって重力に逆らう術をもたない。ジンジンジンジン、鼓動、血流に合わせて痛みが脈打った。圧迫される。血が頭に向かって逆流した。
叫びだしそうになるのをなんとかこらえて、唇を噛みながら桑田を見上げる。彼本人もどうしていいかわからないようで虚ろだったが、その目つきに舞園は怯えた。もはやなにをするにも厭わなそうに見えた。
虚空に漂う桑田の目線がゆるゆると左に動き、ふと、ゆっくりした動作で舞園に向いて目が合った瞬間に、舞園は弾かれるようにバスルームに駆け出していた。ひねって、扉ごと持ち上げるようにしながらくっと押す。持ち主しか知りえなかったことを桑田は知らない。
ドアが背中で何度も揺さぶられて、舞園の膝が震えた。背中を扉に押し付けたが、膝が笑っている。ひとりになってやっと泣きたい衝動がこみ上げてきた。遠くない未来に死が待っているだろうに、それがいまだに舞園には信じられない。死ぬってなんだろう。自分が終わってしまうということが信じ難くて、なぜだかよくわからない。
私は死ぬ。
私は死ぬ。
そのせめぎと心臓の鼓動、そして脈打つドアの緊迫が重なり合って圧迫する。
耐えきれずに舞園は崩れ落ちた。その途端、背後に静寂が訪れた。
自分の鼓動の音が、やけにやかましく聞こえた。
ありえないはずの期待を抱いてしまう自分のあさましさ、見ないふりをしたかった。
わからない。ただわからなかった。桑田の意図。
いやだった、とってかえす生への可能性にしがみつこうとする心が。
だって、それが裏切られたときが本当に怖いから。
ひゅっと喉が収縮し息がつまった。それをほぐすように、腹から息を押し出して、吐き出す。喉をおさえた手が震えた。
大きく息を吸い込む。止める。足にぐっと力を込めて、立ち上がろうとする。
大きく息を吐き出して、足音が聞こえた。近づいてきた。何が?
死が。



「ねえ、どんな気持ち?」
なにも聞こえない廊下をひとり歩く。
「アンタ、強かだったもんね。」
自分は愛されているって自覚、あったんでしょ。ううん、むしろ逆で、自分は愛されていなきゃいけないと思ってた。それがアイドルだから。そうやって得る愛はどこか薄っぺらだと分かってもいたけど、でもあのクラスにいる間は、ちょっとそういうの忘れられたりなんかしてさ。
分かるよ。ああいう世界って、表が現実離れしてキラキラしてるぶん、裏では嫌って言うほど、現実的で。でもアンタは、裏と表を使い分けたり、しなかったよね。せいぜい、「切り替え」程度でさ。息を吸って吐いたら微笑みを作って、腹から声出して。
アンタは良くも悪くも女だった。文化祭でシンデレラなんか演じる程度にはさ。
江ノ島は舞園の死体を背負い直した。力はなく、腹部だけが生暖かく、湿って。首筋には舞園の黒髪が、しどけなくかかった。
イヤホンからはモノクマの声が聞こえている。裁判の説明。予め打ち込んでおいたテキストを読み上げる、自動音声。
裁判の開幕を告げてもなお沈黙が続いていた。犯人を炙り出すことの残酷さを無意識に察しているのか、単に戸惑っているのか、まだ、死を悼んでいるのか。その沈黙は悲痛だった。
生物室に向かってしばらく歩いているうちに議論が始まっていく。殺されたのは、舞園さやかだ。抵抗する間もなく殺されちゃったんだね。凶器はナイフだ。
やたらと耳障りな声がすると思ったら苗木だった。小さい矛盾を少しずつ破っていく声がやたら耳に刺さってうざかった。
「ほら、聞こえる?苗木の声だよ」
イヤホンジャックを抜くとくぐもった音声が静かに響いた。
「アイツ、頑張ってるね。そりゃそうか。アンタたち、仲良かったもんね」
覚えてないけど。それとも死ぬ直前には思い出したりした?王子の従者役だった苗木の微妙な演技とか。
江ノ島はおかしくなって、笑い飛ばしながらちょっとだけ、泣いた。

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