小説C

□木立
1ページ/1ページ



「松野ってさ」
 スマホをいじっていた指が止まって、黒目がちの目がこちらに向いた。
「優しいよな」
「はあ?」
 何言ってんの、とそのまま携帯に目線を下ろしたトド松の、本当になんでもなさそうな無表情を、あつしはクリームパンをかじりながら見下ろした。こういう時のトド松の受け答えをいくつかあつしは思い浮かべる事ができる。「そんなことないよ。でもありがとう」と当たり障りなく受け流したり、「えー? どこが?」と笑いながら自虐にしたり、それに比べてこの返事は大分素っ気なくて冷淡だけれど、この距離感にあつしは慣れ始めていたし、なにより楽だった。要らない気を遣うのは負担でしかない。

 高一の二学期の始め、席替えで前後の席になったとき、あつしは密かに、お、と思った。松野だ。松野トド松。ちょうど六クラスあるので、松野家の六つ子は一クラスに一人ずつ振り分けられていて、あつしのクラスにはトド松がいた。物腰は柔らかく、ノリもそれなりに良く、多趣味らしいので話の幅も広い。だから友だちも多いが、特定の人とずっとつるんでいるところは見たことがなかった。時々クラスに同じ顔をした誰かがやってきて、トド松と二言三言なにかを話していくけれど、あつしはそれが誰で何番目の兄弟なのかは知らないし、トド松が大っぴらに六つ子の話をすることもなかった。一卵性の六つ子の存在は物心付いた頃から地元ではそれなりに名も知れていたし、そもそもトド松にとってはそれが当たり前なのだから、わざわざ話に出す事でもないのだろう、とあつしは考えていた。
 あつしには窓の外を眺めてぼうっとする癖があった。一学期、あつしの席は窓際とは反対側の一番廊下側、前から四番めの席で、けれどあつしは窓のほうに顔を向け、ここからだと小さく見える窓の外をなんとなく眺めてしまうのだった。教室のおおよそ全体が視界に入る中、松野トド松はその視界のちょうど真ん中、窓際、前から三番めの席に座っていた。あつしが窓の向こうに目をやるたび、その視野には必ずトド松がいた。普段友人と話しているときの柔和な印象を与える笑みとは違って、トド松はいつも、どこが冷たさすら感じさせる無表情で座っていた。
 つまんなそう。
 あつしが、トド松の横顔を見て最初に思ったのがそれだった。ああ確かに、いつも浮かべている笑いも心底楽しそうな笑顔ではない。人に好感を与えるために洗練された、それに一番適した表情をトド松は知っているのかもしれない、と、自分も授業に退屈しながら、半分空想ごっこのつもりで、あつしは考えた。それが的を得ているかいないかは大した問題ではなくて、単なる暇つぶしで、なんの感情もない遊び。ここでなんとなくあつしは我に返ってしまって、トド松がシャーペンを下唇に当て、なにかを考える表情をしているところから目を外し、黒板の前でうろうろと話している教師の顔に目を移した。
 あつしはなんとなくトド松の様子を見やるようになった。同じ部の友だちが誘いに来て昼を食べているとき、何気なく教室の窓際のトド松に目をやってしまう。トド松ー、と声がして六つ子の一人がクラスに入ってきたときは特に、兄弟とトド松がどういうふうに会話するのかを観察したりしてしまった。その矢先の、席替えだった。
 なあ、一緒にお昼食べない、と、椅子の背もたれ越しにあつしが声を掛けたとき、後ろの席のトド松は携帯の電源ボタンを長押ししていた。真っ暗だった画面がぱっと灯る。席替えを経てもトド松は一つ後ろにズレただけで、以前のトド松の席にあつしが替わったことになる。 「……いいけど、どうして?」
 返事はにこやかだった。けれどあつしは、若干面食らっていた。どうして、と聞かれるとは少しも思っていなかったからだ。少なくともトド松は波風を立てないタイプで、だからこういうふうに尋ねられると少し戸惑ってしまった。その問いかけに敵意があったようには見えなかったが、このときのあつしは観察を通して、トド松は本心をなかなか見せない人間だ、と思い始めていた部分があったので、必要以上に深読みをしてしまっていたかもしれない。
「あ、変なこと聞いちゃったね。ごめん」
 咄嗟に答えが出てこなかったあつしの様子を察して、トド松もすぐにその問いを取り消した。
「あつしくんって、成績もいいし、クラスでも目立つでしょ。だから、なんで僕のこと誘ったのかなって、ちょっと気になっちゃったみたい。あつしくんがいいなら、一緒に食べよ」
 起動画面が終わった携帯を机に伏せて、トド松はあつしの顔に笑みを投げた。いつも通りの、みんなに向ける微笑みだった。
 あつしは一言ありがと、と言って、椅子を回し、トド松と向かい合う形に座り直した。机の横に掛けた鞄を探っているトド松は変わらず微笑んでいて、そんなに気遣わなくてもいいけどな、とあつしは胸の内でこぼした。
「松野って」
 一度言葉を区切ってトド松の様子を窺ってみると、きょとんとした表情で、開いた口の手前で箸を止めていた。
「いつも笑ってるよな」
「え!?」
「気遣ってる?」
 うーん。トド松は言い淀んだ。箸で掴んでいた豚の生姜焼きを弁当箱の蓋に置き直し、口元の笑みは残したまま少しだけ何かを考えたあと、「こういう顔なんだよ」と人差し指を立てて言い含めた。
 「明日も一緒に食べていい?」
 五時間目の予鈴が鳴った時、教室は何かに気がついたように雰囲気が変わり、各自が席に戻って次の時間の用意をするざわめきの中で、あつしがたずねた。盛り上がっていたエミネムの話が収束しかけた尾の半ばだった。
「うん。いいよ」
 晴れて窓際の席になったあつしは、頬杖をついて外を眺めている途中に、あ、これだともう松野見えないな、と気がついたけれど、クラスの息遣いに混じって背後からシャーペンを動かす音が聞こえて、「まあいいか」と息をついた。翌日の昼休み、あつしは授業が終わるとすぐにくるりと後ろに身を回し、きょとんとした顔で見返すトド松ににやりと笑った。その日、明日も一緒に食べていいか、とあつしは尋ねなかった。
 それから半年と少し経って学年が変わり、二人はまた同じクラスになって、席は離れたけれどあつしはトド松の席に出向き、昼休みを二人で潰している。冬休みが目前に迫っていた。


 会話が途切れたので何気なく窓の外を見やると、植え込みの木の葉っぱが枯れ落ちて風に揺れていた。秋が終わりかけていて、肌寒い。
 ガラス越しに風が通る悲鳴のような音が聞こえたので、あつしは何となく窓を開けてみた。すると教室に冷たい横風が吹き込んできて、机の上のサンドイッチのゴミを吹き飛ばした。トド松がさっさと食べ終えた、レタス増量のハムサンドだった。
「ええ〜!? あつしくん何やってんの、急に窓なんか開けて! も〜なんでたまにこういう意味わかんないことするかなあ……」
 呆れた様子でこぼすトド松を見て、あつしは言いようもなく楽しくなってしまって、抑えきれず笑った。ゴミが飛んで行った先で、トド松のなげきとフィルムの音を聞きつけたクラスメイトが、座ったまま椅子の足元に手を伸ばし、トド松のほうに体を捻って手渡した。トド松は腰を浮かせてそれを受け取った。ゴメンゴメン、ありがと、と頭を掻いて苦笑している。
「ちょっと!聞いてる!?あつしくんって時々ホンット何考えてるか分かんない!」
 相手の視界から外れるやいなやつっかかってくる変わり身の速さが更に笑いを誘って、あつしは腹を抱えてまた笑った。トド松はなにやらまだ文句をつけているが、自分の笑い声が耳に詰まって、なんと言っているかあつしには分からなかった。
 トド松は最後にもー、と口を尖らせて、また携帯の画面に視線を落とす。下から上へ、素早い指が幾度も往復する。
 ふと、あ! とトド松が声をあげた。
「あつしくん見て、これ!」
 突き出された携帯の画面に書かれていたのは、ニューイヤーフェスの当選メールだった。トド松は、特に好きなアーティストはいないけれど、曲調が好きならなんでも聞くタイプらしかったので、多数のグループが参加するイベントのほうを好んでいたようだった。
「なんとなく応募したら当たっちゃったぁ!こういうの、ちょーっとだけ興味あったんだよね。ね、あつしくん、二枚応募してどっちも当たっちゃったんだけど、一緒に行かない?」
 既に爆笑の名残も引いていたあつしが、若干の意外さを滲ませて、眉を少し持ち上げた。
「……松野と?」
「うん。僕より、あつしくんのほうがライブ慣れしてそうだしさ。兄さん達とは死んでも行きたくないし」
 もしかして、何か予定ある?と小首を傾げるトド松に、あつしはすぐさま否定を返した。
「いや、松野って、一人でなんでも済ませるイメージがあったからさ」
 「ああー、確かに。けっこう一人でなんでもやっちゃうかもなぁ。兄さん達にバレると足を引っ張られるってのもあるけど」
 まあ、二枚当たっちゃったしね、と携帯を翻し、頬杖をついて指を動かすトド松に、空いてる日ラインするよ、とさりげなく、あつしが告げた。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ